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2008年7月

2008年7月25日 (金)

Helmuth Rilling

ヘルムート・リリングとは勿論あのバッハのすべての合唱曲を録音した事で知られる、

あの指揮者のことです。

今年75歳になり、2年後の2010年のシーズンをもって引退を表明している。

去年の彼の演奏に初めて接し、腰を抜かさんばかりに驚いたことを思い出す。

ブラームスのレクイエムであった。

幸いリハーサルを2回見学させていただき、さらにコンサートを聴くと言う幸運にあずかった。

幸運、そう、そうれは本当に幸運な出来事であった。

今もってあれほどの尊敬、いや崇拝を持たれながらリハーサルをする指揮者を知らない。

それでいてリリング氏にはつゆほどのおごりはなく、

ただひたすら音楽に、そして演奏家に、繰り返します、演奏家に

奉仕していた。

リハーサル中にスコアを見ることが殆ど無く、ずうーっと合唱を見つめ続けキューを出し、

必要に応じて止め、的確に簡素な指示を出していた。それはまさに職人芸である。

ブラレクは炎のブラームスであった。圧倒的な推進力を持ったものであった。

しかし誤解していただきたくない、テンポが速かったわけではない。

テンポは妥当なものだ。中庸といってもいいかもしれない。勿論速きは速く、耽溺するとこ

ろは遅くというものだ。にもかかわらず、停滞は絶対にしない。意思的といえばいいのだろ

うか?しかしそれでは何の事だか分らない。

恐らくは曲の構成の理解力が飛びぬけているのだろう。本番も勿論スコアはなし。

余計な事は一切せず。

それにしてもあと2年で引退を考えるような演奏ではなかった。

枯渇と言う言葉は似合わない。まだまだ全然現役でいけると思うのだが、、、

ヨーロッパでは彼の新譜はどしどし発売されている。Bachの再録やハイドン・モーツアルトの新録音(勿論再録も含む)がバシバシ売られている。

日本人は高齢者指揮者を崇める傾向にあると思うが、リリングは掛け値なしにそれに値する。ぜひリリング・ルネッサンスを起こし、引退などと言わず、日本に来て演奏をしてもらいたいものである。

国際バッハ週間 イン シュテュットガルト

今年2008年の2月下旬から3月にかけておこなわれた
International Bachwoche Stuttgartと世界的指揮者ヘルムート・リリングによる
バッハ週間(Bachwoche) に参加しました。
幸いオーディションを通過したので、ヘルムート・リリング氏のレクチャーコンサートで、バッハのミサ曲から幾つか抜粋を指揮する事ができました。

会場となったStift教会は満員の盛況でした。コアなファンがいるらしく全4日のコンサートを全部見に来ていらっしゃる方も多数居られたようです。

自分は1日目と3日目に指揮。

3日目の本番前3時間ほど前にカフェで譜読みをしていたら、初老のご婦人に声をかけられました。

「2日前に振ってたわよね。今日も振るの?そう、楽しみにしているわ。私は毎年全部聞いてるのよ。」

と言う所から始まり、如何にリリング氏とバッハの音楽に感謝しているかを遠くを見つめながら話してくれました。

この感謝されていると言う感覚、そして人が音楽を本当に生活の糧、人生の糧にして、きわめて真剣にそれに接しているという感覚。

ヨーロッパでのみ感じる事ができる感覚ではないでしょうか。
このような方々がいらっしゃる限り、クラシックは無くならないと思うし、また、非ヨーロッパの地域でもクラシックをもっともっと演奏し、身近に感じてもらい、かつ、その素晴らしさを認識しもらえるよう活動していかなければならないなぁという思いを強くしました。

音楽を単なる気晴らしの一つとして取り扱うのはもったいない。

「一生の友」となりえる音楽
という認識・感覚を、もっと多くの人に持っていただきたい。
その手助けができるよう頑張りたいと思います。

写真は指揮するリリング氏

そして一緒に参加した仲間達
Img_1409 Img_1416

2008年7月21日 (月)

モーツアルトの肖像

Wmozart114

ちょっと前に新発見されたモーツアルトの肖像がです。

注:右側だけです。

はっきり覚えてないのですが、

クリフ・アイゼン(有名なモツアルト学者)によると、アマデウス君の人気がウィーンで頂点に達していた頃のものらしいとの事。

結構威厳があるというか、年とって見えますね。

若死にしたイメージがあるので、永遠の青年って感じがあったのですが、、、

どう思われますか?

イメージ変わりませんか?

歌えるのか?

4年前に肥満で解雇のオペラ歌手、減量して同じ作品に復活と言う記事をちょっと前に読んだ。
デボラ・ボーイトさん

バイパス手術して54キロ減量、、、。

これってつまり体のどっかに穴あけたんでしょ。歌う時に必要な筋肉が切られているはずだから、復活にはかなりのリハビリをしたんじゃないかな。

ちなみにあの大きなオペラ歌手の方々はたくさん筋肉をつけています。勿論脂肪もありますが、単なる肥満ではないのです。

ゆえに、かなり練習しなおしているんじゃないかと思うのです。

そして解雇になったところに復帰。

根性ありますね。

それにしても、これからはオペラ歌手も容姿が求められる時代になったか。まぁ舞台に立ち、DVD録画もあるから、ある程度はしょうがないわな。

逆に言うと今なかなかいけてる歌手諸君は、ちゃんと気をつけてウェイトコントロールする事ですね。頑張ってください。オペラは総合芸術です。出演者の容姿も要素のひとつ。

現実は小説より奇なり

ちょっと違うかな?、、、まぁいいや。

現実と想像の違い一題

夏目漱石の親友で若くして死んだ(35歳)文豪正岡子規。

曰く、

頭の中で色々なイメージを膨らませたり、変えたり、組み合わせたりして、一つの光景を作る事(理想と彼は呼んだ)と現実・リアリズム(写生と彼は呼んだ)では

「理想」が月並みであり、「写生」は多様多彩だ。

逆じゃねぇ?

イマジネーションを使ってどうにでも出来る「理想」の方が、自由奔放じゃないか?

と思いませんか?

正岡子規は言う:

「理想」は、一見現実の拘束を受けない自由を楽しんでいるように見えて、実は既製のイメージなり、パターンに強く拘束されている。それは勝手気儘なように思いながら、むしろ思っているからこそルーティーンの奴隷であり、抱き合いのイメージの規制を受け、されには凡庸さから抜け出る事ができない、ゆえに「月並み」なのだ。

むしろ、眼前の現実に目を向け、その対象を、つまりは人の顔を、町並みを、山野を、偏見無しに見て御覧なさい。よく見れば見るほど、その見慣れたはずの事物が、はじめて見るような奇怪かつ奇妙な姿をしていることに気ずくのではありませんか。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

凡人のイマジネーションなぞ、リアリズムよりも月並みなパターンで形成されている。

と言う事か。

そして虚心になって現実を良く観察すること。これは大事だと思った。

目の錯覚を扱ったTV番組を思い出す。人間の脳は案外怠け者で過去の経験から目の前に写っているものを判断し、ちゃんと正しく認識しないのである。

往年の指揮者が皆口をそろえて言う事の一つに

「目の前のオケを良く聞け、理想の音を頭の中で聞くな」

と言うのがある。

同じ事を言っているんだな。きっと。

「音楽を考える」

茂木健一郎・江村哲二

2人の対話が永遠と続く。

情報量の多さに反比例するがのごとく、短時間で読める、

つまり、おもしろく、多くの示唆を与えてくれる本。

勿論、賛同しかねる箇所もあれば、もうすでに分っている内容も含む。

気になった箇所を幾つか書いておきたい。


教会という場所は天井の高い、周りが石造りで非常にエコーのかかりやすい環境です。

             ~中略~

単旋律で、A(アー)の高さの音を全員で出しても、そこのおじさんと、あっちのおじさんと、ここのおじさんでは微妙に音の高さがずれるんです。ピタッとピッチ(音程)があうなんてことはありえない。そうすると、そこに唸りが生じて高次倍音がウワアッと出てくる。互いの音の微妙な違いが、教会のようなホールだとノイズではない響きとしてウワーッと響く。日本やチベットの声明と同じ原理です。数学的きちっと構築することによってできた音楽の構造が、教会という特別な空間のなかで響いていることで、より神秘的、祝祭的なイメージと重なり合って、(ヨーロッパ人は)美というものを理解していたんじゃないかなと思います。



古代ギリシャでは美しい音楽の背景には数学的構造があるという事は理解されていました。しかし私は上記のような数学的美と演奏そのものが持つ不完全性(ピッチが合わない)の2つの要素の交わりが演奏空間によって包まれ、
>>より神秘的、祝祭的なイメージと重なり合って、美

となると言う事は考えた事がなかった。そのような反故に存在する緊張感というアイディアは卓抜だ。


現代では、ただ「聴く」という態度自体が欠けていて、

            ~中略~
日常生活のなかで耳を澄ますことはほとんどないでしょう。プロの芸術家は別として、一般の人たちはとても騒がしい日常を送っているんです。


ここでは「聴く」は「聞く」と区別され、前者を能動的な行為と位置づけ、さらに自分の中に存在する音や声に耳を澄ますと言う行為にまで意味を拡げて論じている。

さらに「見る」と「聴く」の違いについて、


目だとある空間的な特定の方向に注意を向けるわけです。見える範囲というのは限度がはっきりしている。それに対して音の最大の特徴は、空間的な限定がないということです。



たしかに音を聞いただけで、音を出している主体の位置を確定するのはなかなかうまくいかない。故に「聴く」と言う行為は全方位的であり、それは内面方向へもアプローチする。
このような考え方は日本語的には理解できる:「心の声を聞く」とかね。ちなみに英語でもListenをこういう場合は使うので、わりとユニバーサルな意識かもしれない。

さらに見ない事によって、想像力が養われる事:本書では原作を読んでから映画をみるとつまらない事が多いのは、見る側(読者)がすでに、読書中に画像を創造しているからと言う。

 
音楽家としては「聴く」と言う行為がこれほど評価されると正直嬉しい。このビジュアルの時代に逆行するかのような発言に彼らの意気を感じる。しかし勿論「聴いていない」演奏家も存在するし、「聴いている」アマチュア音楽家もいるし、また自分の内なる声を聴くという意味では、全ての創造的アーティストが「自分だけの、自分にしか作れない作品」を作るためには当然耳を澄ましているだろう。でなければ芸術に変化は訪れないだろう。ピカソもカンディンスキーもクレーもベルレーヌもタルコフスキーもマラルメも芥川龍之介も太宰治も、、、、みんなそうだ。

芸術家だけではない。

その行為の大切さを常に思い出して生きたい。


「お子様向けクラシック」を排除しよう。

大賛成。つまりある特定の曲をお子様用にしてそればかり演奏する事は問題だ。お子様のために作曲されたわけではないのだから。普通に色々な曲を聴いてもらえばいいのだ。バッハもモーツアルトも無調も何でも良い、まずは聞かせるべきである。10歳の子が絶対にバッハの平均率(無人島に持って行きます)を理解できないという証拠があるのか?

最後に


茂木氏:主流から外れた人のほうがむしろ、ムーブメントを起こす存在なのです。
江村氏:しがらみみたいのものが一切ないことが、僕の立場なのかもしれない。何もかも自分ひとりで切り開いていかなくてはならないという天では大変だけど、新しいまっさらな道がそこに広がっているt思えばこの上ないチャンスです。
茂木氏:表現者だけでなく、一般の人だって、人間として生きていく上で、そういう精神は必ず恩恵をもたらすということです。





あなたも、やってみませんか?

シュテュットガルト放響日本ツアー行く前3

そして最後に小菅優さんがいらっしゃった。ベートーベンの第4ピアノ協奏曲である。

不詳私、あのピアニストをぐるっと囲む配置を見るのは初めてであった。

以前NYでハイドンのP-Conを演奏した時はピアニストを囲んでは居なかった。

勿論サー・ロジャーの立ち居地はピアノのくぼみ、お客さんに顔を向けて立ってはいた。

もうすでに色々と話してあったようで、所々出てくる小さいカデンツァからのオケのアインザッツの練習。

日本の皆さんのブログでサー・ロジャーが「カデンツァですら指揮していた」、「小菅さんには何の自由もない」などの批判を書いていらっしゃる方々がいらっしゃったが、それは誤解です。

サー・ロジャーは小菅さんに合わせて数えていただけです。

小菅さんはこの楽器配置は勿論初めて。

なれない位置であるにも拘らず、「オケメンバーとのコミュニケーションが取れるので、楽しい」と仰っていた。

サー・ロジャーは「Yu、you should conduct from piano someday.」と弾き振りすることを勧めていた。

いずれ小菅さんの弾き振りが見れるのだろうか、、、

2008年7月16日 (水)

シュテュットガルト放響日本ツアー行く前2

メンコンのリハーサルにジャニーヌ・ヤンセンさん(Janine・Jansen)が来た。

CDジャケットなどに写っている妖精のような(古いくさい表現ですみません)ヤンセンさん、

生で聞くのは初めて。

筆者はビバルディの四季のCDを持っているが、モダンのピリオド奏法としては屈指の

出来と考えている。

その彼女のメンコンだけに、期待は大きかった。

この期待はいい意味ではずれた。すなわち庄治さやかさんのようにビブラートを可能な限り使わないというようなスタイルでは演奏しなかったからだ。

ヤンセンさんは繊細で大振りでないビブラートと、微妙なルバートを駆使し、

さわやかに歌う。

そこには大きくない、それでいてよく通るという彼女の音の特性が生かされている。

大振で表現的なビブラートは音が小さい故に彼女には合わないだろう。

したがって目立たないがそれと良くわかるルバートによって彼女は自分の音楽を作る。

サー・ロジャーとヤンセンさんは同曲をすでに共演しているので特に打ち合わせする事

も無く、リハーサル終了後ただちにヤンセンさんは別の都市に旅立って行った。

追記:

今回ベーレンライターの新版を使用。途中慣習版と音の違いあり。初聞きでびっくり。

2008年7月 6日 (日)

ライヒとTVとアンサンブル・モデルン

金曜日の夜だから7月4日の夜、NHK教育でスティーブ・ライヒの来日コンサートの模様が放送された。

演奏曲目:

ダニエル・ヴァリエーション(日本初演)

Music for 18 musicians

の2つ。

さらにストリングカルテット・アルコ演奏で

Different Trains

ライヒの日本での需要はまだ低いと聞いている。

これを期に20世紀後半のもっとも偉大な作曲家の一人に注目が集まる事を祈る。

何と言ってもライヒの影響をまったく受けていない現代の作曲家を探すほうが難しいほどなのだ。

それにしてもNHKはまぁ頑張っていると言っていいだろう。勿論クラシック音楽関係プログラムの事である。

NHKは音楽専門チャンネルでは無いのだからこれ以上増やせというつもりはない。

数で言えば本当に十分であろう。

そして何と言っても素晴らしいのはNHK交響楽団以外の日本のプロオケのコンサートすら放映する事だろう。

それにひきかえどこかの読○さんは自分の楽団のコンサートすら殆ど放映しない。

民放さん達は本当にこれからどうするのだろうか?

TVの視聴率は落ち、ドラマ・クイズ・お笑い以外でゴールデンタイムを埋めるつもりも無さそうだが、、、

私は大衆はクオリティの高いを物を嫌がるとは思えない。勿論古典(文学でも音楽でも)はその表現スタイルが古い故に、現代の人間には伝わりにくいという側面もある。

したがってクラシック音楽が楽しめなくても、シェークスピアがつまらなくてもしょうがない。

しかしなめてもらっては困る。ある程度の経験を積めば、こうした古典は、時間の審査に耐えた最高級の物であるが故に、絶対に万人に理解されるのである。

こうしたチャンスは日常の生活では(以前も書いたが)接するのが難しい。

TVにはこうした事への機能を期待したい。

それでこそ真にビューアーの事を考えているという姿勢に説得力が増すのではなかろうか。

さて肝心の演奏はアンサンブル・モデルンについてのみ言及する。

Different Trainは未聴。ビデオ録画してあるので後日また。

まずダニエルの方。

やはり弾きこんでいない曲では、さすがのモデルンでも緊張し、ミスを犯すものなのだ、とあらためて実感した。

タイトな演奏では無かったという事とそしてやはり演奏者に余裕が無く、何をどう演奏すれば良いのかの意思疎通がまだ無いようであった。

つまり18人と比較すれば明白なのだが、18人においては各奏者が今曲のどのへんで次に何が来て、今自分が弾いている箇所は音量においてどのようなバランスで弾くべきなのか等、演奏に関する答えが出ていた。

もともと指揮者を置かない曲であり、このような曲に対する理解・と解釈の一致は必要である。

しかし実はそのような「曲に対する理解・と解釈の一致」というのは指揮者がいてもアンサンブルは持っているべきである。それが奏者に余裕を与え、指揮者の解釈に対する理解の助けになるのだから。

しかしながらダニエルに関して言えば、モデルンの奏者達はそこまで曲を理解していたとは思えない。それがアンサンブルの反故そして演奏の甘さに現れていたと思う。

不安げに指揮者を見る奏者のアップ、、、

指揮者のLubman(ラブマンとカタカナ表記だが、NYではリュブマンと発音していたと思うが、、、)は現代音楽に強く、博学で素晴らしい指揮者だが(以前Emailのやりとりをすこしした事がある)今回はに限って言えば、モデルンを助ける事が出来なかった、と言うしかない。

彼の仕事に常々敬意をもっている私としては残念である。

それにしても18人の演奏は素晴らしかった。グルーブ感といい、バランスといい、音色といい、一瞬CDを聞いているかと錯覚するほどであった。

これからも良い演奏と新作初演をどんどん手がけて行って欲しいと切に願う。

そして日本でも多くの演奏家がこれからライヒや他の現代音楽曲を弾いていく契機に今回のTVプログラムがなりますように。。。

2008年7月 2日 (水)

シュテュットガルト放響日本ツアー行く前1

ご存知のように今年2008年の1月下旬から2月上旬にかけて

サー・ロジャー・ノリントン率いるシュテュットガルト放響は日本ツアーを敢行しました。

私はお留守番でしたが、リハーサルは全部聞きました。

エロイカ

ブラ1

メンコン

べト4Pコン(こんな言い方しないかな?)

そしてブリテンやRVWなどすべて聞きました。

メインの2曲は録音もしている十八番なのでリハーサル時間も短かった。

年明けの一発目の仕事がこのツアーと言う事で充電十分のサー・ロジャーはエロイカのリハで大ハッスル。まるで本番のごときエネルギーで「覚えているか!」と無言の圧力をオケにかける。一気にノリントンワールドを作り上げた。

しかし今回は初の試みがあった。それは弦楽部の増減である。すなわち管がソロで吹く時はそれにあわせ弦も減るのである。

N響に来日時にモーツアルトで使った手だ。ベートーベンは初トライという事であとから感想を求められた。

右:「ダイナミックレンジがさらに広がり効果的です。それとリフキンの提唱するバッハ時代のコーラスのようにコンチェルティストとリピエーノのような関係があり、ドラマのクライマックス時のテュッティの時は本当にそこに意味がある事を感じました。」

ノ:「そうか、モーツアルトの時はそれを意識してたんだけど。良かった。」

ノ:「でもブラームスではやらなくてもいいよな。」

右:「必要ないでしょう(聞いてみなきゃわからんよ)」

ノ:「そうか、やっぱりな、よし、やらない。」

この後リフキンの話を少しして、ドビュッシーを演奏して欲しい旨を伝えた。

ノ:「フランス物はね~、あんまり好きじゃないからな。。。」                         

  「ちなみにベルリオーズはドイツ人!」

おいおい、、、

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