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2008年8月

2008年8月30日 (土)

モーツァルト作曲 交響曲第41番 「ジュピター」

交響曲第41番 "Jupiter"の第4楽章のファゴットパートにミスがあるという。

これは指揮者のBruno Weil(ブルーノ・ヴァイル)が提唱したものだ。

要約すると

255小節以下ファゴット・パートにト音記号を付加するのを忘れた

と言うのである。

リリースされたCDのブックレットに詳細が書いてあるので、図書館から借りて読んでみた。

結論から言えば、

疑問をはさまざるを得ない。

1.ト音記号?

ト音記号なら当然このFはファゴットには高すぎるので、実際になる音は1オクターブ

下のFと言う事になる。

私はそのようなト音記号の使い方をファゴットに使った例を聞いたことも見たこともない。

モーツアルトはこのような記譜を他で使っているのだろうか?

それともこれは18世紀の常識の範囲だったのだろうか?

これはそのような記譜法を他の場所から持ってきて証明すべきである。

どなたかご存知ですか?

2.何処まで?

ここでは255小節以下と書いてある(あとの方で突然253からと記してある)。

しかしどの小節からヘ音記号に戻るか書いていない。

ちなみにモーツアルトがもしト音記号を書き忘れたのなら、

ヘ音記号も書き忘れた事になる。

2重のミスを犯したことになる。

このような2重ミスをモーツアルトが犯したというのなら、このスコアそのものの完成度に

たいする疑問が浮上する。

個人的には259の半分までがト音記号と言う事になるだろう。

259小節以下をト音記号で吹けば間違いなのはすぐわかるからだ。

3.こっちがミスではない?

253がト音記号だとファゴットの音がEとGになる。従来はここの箇所、ヘ音記号読みでGと

Bなので(失礼、ドイツ語風ならH)、オーボエが吹くBbとぶつかる。和声的に見てもここは

Bbが正しいので、従来はモーツアルトがbを書き忘れたとされてきた。

ト音記号ならこの箇所は和声的に問題が無くなるので、モーツアルトはbを書き忘れたの

ではない、と言う事になる。

作曲家が臨時記号を総譜に書き込まない・書き忘れる例は事ない。

原点版をみればどれだけ多くの( )にはさまれた臨時bや#を見かけるかは

ミュージシャンのかたならだれでも知っている。

言ってみればこのようなミスは平凡で、意図的ともいえるのである。

つまり、単なる省略。

したがって臨時のト音記号を入れ忘れるというのとどちらが起こりやすいかは明白だ。

さて、ではト音記号で演奏すると実際に何が変わるのだろうか?

ヴァイルはこの箇所を「モーツアルトではなく、ドビュッシー風に響く」と言っている。

それが今回、彼的にはドビュッシーからモーツアルトに戻すと言う事になるらしい。

本当にそうだろうか?

ト音記号だと、254の和声に問題がでるのである。

従来とおりなら、FMajorにGのSuspensionが入ったものなのだが、

ト音になると、EとGの2重Suspensionになり、響き的にはぐぐっとドビュッシーに近づいてし

まう。これはどうするのか?しかもこのE、従来どおりなら、存在しない音だ。

しかも!

255からでも和声進行に何の影響も及ぼさないのである。

なぜならファゴットの吹いている全ての音は他の楽器によって演奏されているからである。

フルートとセカンドヴァイオリンである。

つまりファゴットの音はモーツアルトが意図した和声の範囲なのである。

すなわち、もしそのドビュッシー的な響が、この記号変更によって消えたのなら、

それは和声からは来ていないのである。

では何が変わるのか?オーケストレーションの変更により、各音のバランスが変わる。

ト音記号での演奏ならファゴットはトランペットとホルンとダブル。

つまりその存在感は薄れる。

結果として、「少しだけ混濁感がなくなる」であるが、実際には「殆ど変わらない」というの

が、ヴァイルのCDを聞いてみての感想である。

ちなみにヴァイルも言及している通り、提示部における平行箇所は、ファゴットはトランペ

ットとホルンをダブっている。

これもト音記号の正当性を主張する材料なのである。

つまりこのほうが論理的というのである。

しかし!

天才作曲家達が平行箇所でありとあらゆる非論理的な非整合性を用いるのは

日常茶飯事だ。

原点版を日常的に使用し校訂報告を見れば、作曲家が同じパッセージに違う

アーティキュレーションを施すなどの、一見ミスのように見えるバリエーションを与えるのは

よくある事だ。

これまでの議論をまとめてみよう。

1.? ファゴットにト音記号使用、しかも実音は1オクターブ下。そのような他の例は?

2.2重ミス!

  モーツアルトはト音記号だけでなく、どこでヘ音記号に戻るのかの指示も書き忘れ。

3.従来のbのつけ忘れは一般的な省略方法と言っていいほど普通のこと。

4.基本的に和声に変更なし。サウンド的にも殆ど変化なし。例外は254小節の和声。

  ここだけ逆効果で、さらにドビュッシー的音響になってしまう。

以上の理由で私はヴァイルの主張に同意しかねる。

思うに、ヴァイルはこの箇所というか、この楽章の書法を理解していないのではないか。

この楽章はモーツアルトのフーガ書法に対する最終回答なのである。

単旋律で良く歌う、ホモフォニックな書法が特長のモーツアルトが多声書法で使われる

フーガを使って築いた一代金字塔である。普通なら、多声書法の旋律はどれも、

あまり良く歌はない。

あまり歌える旋律にはならないのである。

しかしこの楽章では、全ての線が、あたかもオペラで使えるような旋律ばかりだ。

このような融合はモーツアルトにしか、

いや晩年の、バッハ体験を通した後のモーツアルト以外には出来ない芸当であろう。

しかしそのモーツアルトでも避けられない事がある。それは偶発的な不思議な縦の響きである。

バッハのフーガをピアノで練習した事のなるかたなら誰でも、経験していると思う。

ゆっくり弾いていると、頻繁に「これ本当にあってるのかな?」と思う箇所に遭遇する。

各声部の動きはまったく問題ないのだが、それら複数の声部をゆっくりと同時に引くと、

時々縦の響きが不思議な音響になる。これは和声の連結(縦の響きの連結)よりも旋律

的美しさ・論理性(横の流れの連結)が優先されるので、起こる現象だ。

通常は、演奏テンポで弾くとこの不思議な縦の響きはまったく気にならなくなるのだが、

ヴァイルはこの箇所で突然現れた響きに違和感を感じたのだろう。しかしそれは彼が、

この楽章を和声連結に比重を置いて聞いているから起こるのだろう。

私はこの箇所をかつて一度として、「ドビュッシー的」と思った事はない。

しかし圧倒的な旋律の洪水として聞き、常に、モーツアルトが書いたもっとも複雑にして充

実した箇所の一つだと思っている。

2008年8月11日 (月)

ベートーベンの耳

「本当は聞こえていたベートーヴェンの耳」  江時久著

を読んだ。

もともとベートーヴェンが完全な失聴者ではなく、難聴者であることは

はっきりしていた。

でなければ、ちょっと無理なエピソードが幾つかあるからだ。

しかしやはり人の声が聞こえず、ピアノやオケの音は聞こえる

というのはなんだが不思議な感じがしていた。

しかし、この本を読んでやっと謎がとけた。

あぶみ骨固着による難聴であれば、上記のような症状になるという。

つまり、
     
    人の声が聞きづらく、楽器の音はかなり良く聞こえる

のである。

驚くべきことに、人間は音を耳以外の場所でも聞いているというのである。

つまり、音の振動は耳と頭の骨を伝って頭の中に入っていくのだそうだ。

これはびっくりだ。

思い返してみれば、耳栓をしても結構聞こえてしまう事がある。

耳栓がちゃんと入っていないのかと思っていたのだが、実は耳(気導)

はふさがっていて、頭の骨(骨導)によって音を我々は拾ってしまって

いたのである。

ただし、江時氏によれば骨導による聴音は音そのものが強くなければな

らないと言う。つまり、人の声より楽器の音(勿論音量はデカイし、遠

くに飛ぶ)のほうが、強いので骨導による聴音が可能だと言う。

しかし骨導は万能ではない。残念ながら、発音物体が遠くにある場合、

音の力は拡散してしまうため、骨導では聞き取れなくなってしまう。

そうであれば、ベートーヴェンが遠くで鳴っている音が聞き取れなくて

も不思議ではない。またオペラなどは歌手が遠すぎるので、

良く聞こえないし、お客さんの拍手も、彼の後ろから音があるので、や

はり聞こえないのである。

以上はこの本から得た情報である。

さてここで考えるべきは、では実際どの程度聞こえていたかである。

そしてこれには答えがない。あぶみ骨固着難聴者にはオーディオマニア

など、音・音楽好きが多いという。しかしこれをもってベートーヴェン

の耳が良かったと言う証拠にはならない。




結局ベートーヴェンの耳がどれほど良かったという事は永遠にわからな

いであろう。そしてそんな事よりも大事な事は、例え彼が普通に全てが

聞こえていたとしても、彼の曲の価値は変わらない。

私がベートーヴェンの曲に感動するのは、その曲が失聴者によって

書かれたからではなく、その曲がそのような力を持っているからだ。

そして忘れてならないのは、ベートーヴェンは人と会話をするのは難し

かったという事実である。

それはつまり、彼にとっては(我々が知るように)難聴も失聴も死ぬほ

ど辛い事であり、彼の人生を困難にしたという事である。

ベートーヴェンの人生が困難であり、それを彼は音楽活動を通して克服

していったのである。我々が彼の音楽に聞くのは、そのような彼の苦悩

(アパショナータ)とそれに立ち向かう勇敢(運命)と、そして未来へ

の希望(第9)ではなかろうか。勿論ここに、深い悲しみの果てに

たどりついた諦念(最後の3つのピアノソナタ)を足したい方もいらっ

しゃるだろう。

もう一度言いたい、ベートーヴェンの音楽の価値は変わらない、例え彼

の耳が聞こえていたとしても、、、、、





ちなみに著者はあぶみ骨難聴者である。

2008年8月 3日 (日)

脳と仮想

 2001年の暮れ、私は羽田空港にいた。朝一番の飛行機で旅行から

 帰ってきて、レストランでかれーライスを食べていた。私の横に、

 家族連れがいた。5歳くらいの女の子が、隣の妹に話しかけていた。

 「ねえ、サンタさんていると思う?○○ちゃんは、どう思う?」

 それから女の子は、サンタクロースについての自分の考えを話し始めた。

 その先を、私は良く聞き取れなくなり、カレーライスの皿の上にスプーンを

 置いた。

 「サンタクロースは存在するのか?」

 この問いほど重要な問いはこの世界に存在しないという思いが、

 私を不意打ちしたのだ。

このようにして茂木健一郎の「脳と仮想」は始まる。

「仮想」、つまり実際には存在しないもの、そしてそうであるにも拘らず、いやそうであるが故に、「仮想」に人間は切実なものを感じる。過去に起こった物事はすべて仮想である。想像の動物や人(サンタクロース)も仮想である。あなたが誰かをイメージしたら、それが実在する女性(初恋の人とか)であろうとなかろうと、彼女は「仮想」である。美も善も仮想である。この世は「仮想」に溢れている。いや、人は「仮想」なしに生きていけない。人はなぜこのような「仮想」にそれほどの実感を感じるのだろうか?

茂木氏は色々な例をありとあらゆる角度が論じ、いかに人間が「仮想」と伴に生き、それがいかに我々の人生の本質であり、故に大切であるかを説く。

氏は現代の視覚文化へ警鐘を唱える:

  画家は単に目があるから見るのではない、寧ろ、目があるにも関わらず、

  見抜くのである。-中略- 様々な情報をデジタルのデータとして大量に

  手に入れられる現在、何かを見ることの困難はむしろ増大している。

  本来現実に対応物がないことが本質である仮想でさえ、わかりやすい音や

  絵にして見えることを人々が要求し始める。現代人はひょっとしたら

  仮想とはCGによって表現されたハリウッド映画のことだと想っている

  のではないか。CGによて表されたものは、仮想ではない。

  それは、「今、ここ」の現実である。

したがって茂木氏は「仮想」をビジュアル化し、解りやすくすることに異を唱える。

例としてワーグナー作曲の「トリスタンとイゾルデ」の最後のシーンをあげる。

イゾルデは最後、死んで横たわっているトリスタンのもとへ生きながらにして死

に、彼への愛ゆえに、昇天する。それは死んで彼女の魂がトリスタンの魂のもとへ

行くという演出が一番解りやすい。故にそのような様子をスクリーンに映してみた

りする事は可能だ。しかしここで一番大事なのは、そのような昇天は話の筋と幻想

性から考えてみれば、見なくても観客は感じることができる。

否、感じる内容事態は各々違うかもしれない。しかし、そのような、「愛ゆえに」と

いうような身を焦がす思いが、イゾルデを死んだトリスタンのもとへ連れて行くと

いう現実ではありえないような事象を引き起こしている事は、観客はそれを見なく

ても、感じることができるのである。

それをまず、イゾルデを殺し、そして魂をおぼしきイゾルデのイメージが体内より

出てきて、そして云々、、、、などと見せる必要はないし、

見せる事によって観客ひとりひとりが自分でそのような

彼自身のオリジナルの「仮想」を作る事、

瞬間的に作ってしまうという事によって起こる

感動の体験」、エモーションの波

を体験する事を妨げる事になる。

そうなれば、「仮想」に対して人間がもっている切実さなど当然消えうせてしまう。

「仮想」をつくり、見ること、それは物事の本質(往々にしてそれは概念的であり、

物質的ではない)を見ること、考える事に繋がるのである。

それにしても、「芸術は、人に心を傷つけることで感動させる」

のくだりは本当に卓抜である。優れた芸術作品によって心が受ける、ぐさり

としたあの感覚。

あれこそは我々芸術家が欲してやまないものだが、

何という見事な表現であろうか。

茂木健一郎が一介の科学者ではなく、

        芸術家としての科学者である一つの証がここにある。

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