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2008年12月

2008年12月28日 (日)

シュテュットガルト放響定期ファイナル

日本ツアーから帰ってきたオケは続けてサー・ロジャーと地元でコンサート。

日本は楽しかったようでサー・ロジャーは元気溌剌。

今回のプロは

バッハ: 管弦楽組曲1番

ベルグ:ヴァイオリン協奏曲

メンデルスゾーン:交響曲第5番「宗教改革」

リハーサルを始める前にいきなり

「良くあるフェイクとは違うからな。」

解ってますよ。待ってましたって感じです。

録音されましたので、発売されたら聞いてください。これが本当のピリオド奏法。

大体、ジャーナリストが悪い。

なんでもかんでもピリオド奏法って言うのはおかしい。

アーノンクールのブラームスはピリオド奏法とは縁もゆかりありません。っていうか、

彼はもうピリオド奏法の旗手ではありません。

ハーディングは一部、本当に一部だけ使用してます。

ラトルはベートーベン以降の音楽ではまったく使用してないでしょう。対抗配置くらい?

音をなんでもかんでも短くして、テンポ速くて、さわやかで、強弱のメリハリがあって

ビブラートを抑制していればピリオド奏法

、、、、、、、、、、ではない!!!!!!

はっ!

バッハに戻ろう。つい興奮してしまった。

ダンスのテンポを考慮した妥当なテンポ。

短すぎないけど、レガートでもないアーティキュレーション。

音型にそったフレージング。

よって流れるように推移するダイナミクス。

そして的確に足された装飾音。

モダン楽器ではこれ以上は望めないフェイクではない、本物のピリオド奏法が

ここにある。

でも、ノンビブラートばかりが取り上げられるのは本当に不本意だ。

全ての要素がそろっている真正のピリオド奏法なのに。

書くほうの人間に知識がないから仕方が無いかもしれないが、(大変素晴らしい方もいらっしゃいますが、いかんせん少なすぎる)それにしてもあまりに無責任。

演奏家達が古楽から影響を受けているのは間違いないが、、、、

間違ってるんだからしょうがない。

やめてください。ピリオド奏法って言うの。そんな単語でなんの説明になるのか?

知らない人にはわからない。しかも本物をしらずに歪んだ知識になる。

批評家はそうやって適当にすませず、ちゃんと説明しろ!

嫌なら書くな。批評家としての倫理観と責任感をちゃんと持て。

全然違う話になってしまった。

まぁバッハはこれくらいで次はベルグです。

2008年12月26日 (金)

第9のライブ2

歌手について書き忘れたので書きます。

歌手の方に伺いたい。

第9の音楽形式はなんのか?

これはオペラ?それともオラトリオ?

「交響曲です」

って答えが聞こえるね。

じゃぁ聞くけど、

交響曲を歌うのにふさわしいスタイルってなんですか?

私が聞いたのは、あたかもこの曲が

血みどろのラブロマンス

イタリア・オペラまっしぐら

みたいな歌だった。

この、第9という曲は勿論、宗教曲ではない。

が内容は、言うまでも無く、

道徳、友愛等を歌い上げた

「歓喜の歌」

だ!

このような曲に果たして、オペラを歌うような歌い方でいいのだろうか?

例えば今時、バッハのマタイを、ヨハネを、ロ短調ミサ曲を、

劇的に激しく歌っても、

様式、すなわちスタイルはオペラとは違うものである事は、周知の事実で、誰も

その辺をごっちゃにする事は無いと信じる。

また、第9のソロ達は民衆の中からの声だと信じる。

つまり民衆を代表しているのだ。

これはドイツの伝統的宗教曲のスタイルに則ったものである。

ドイツバロック期の宗教音楽のソロパートは合唱パートから出てきて歌うのであ

る。つまり、ソロ歌手は合唱パートも全て歌うのである。

なぜならそれは、民衆の声だからである。

特定の個人ではなく、普遍的な誰か、つまり、あなた、であり、わたし、、、である。

第9のソロ・パートはこの伝統から来ていると確信している。

したがって私は、第9に節操の無い美声主義的ビブラートは似合わないと思う。

もっと宗教曲・合唱曲に寄った方法がふさわしい。

考えてもみて欲しい。

この曲のソロパートは実際には非常に小さく、効果的ではあっても、

難しいと言う事はない。

歌手の見せ所なんて無い。

カルテットで歌うところなど、ミサ曲などの宗教音楽によほど近いではないか!

今一度、考えてみて欲しい。

見せるところがないから頑張ってビブラートでもかけようなどとは考えないで欲しい。

この日はバリトンのキュウ・ウォン・ハンさんだけが誠実でさわやかな歌い口であった。

この曲に対する真剣な態度を聞くことができた。

しかし特に女性陣はまるでヴィオレッタか?みたいに歌いあげていた。

アンサンブルの箇所においてすらそうであった。

もしあれで抑制した演奏だったとするのなら、

オペラを歌わせたら、音程など絶対にわからないような歌い方になるだろう。

美声の前に、歌詞がある。つまりどのような抑揚で読むのかを考え、そしてそれがはっきり聞こえるようにフレーズをして、さらに言葉が一点の曇りなくききとれるように発音(ディクション)をする。

それらをクリアーし、まったく犠牲にせずにどれだけ美声になれるか。

それが歌手の仕事であろう。

毎年歌うからと言って、惰性になってはいけない。

van Beethoven氏はそんな事を認めないだろう。

考えて欲しい。

2008年12月23日 (火)

第9のライブ

日時:12月13日

場所:文京シビックホール

演奏:東京フィルハーモニー管弦楽団

指揮:佐渡裕

聞いてきました。

このホールは初めてでした。

渋谷のBunkamura、オーチャードホールのように、

音がステージ上に停滞し、こちら(観客側)には来ないタイプのホール。

演奏終了後の佐渡さんは、「やりたい事がパーンと綺麗になって良く聞こえたね~。」と

仰っていたので、ステージ上の演奏家にとってはそんなに悪くないのかな~。

オケよりも合唱の方が良く聞こえたのでした。オケのTuttiより大きかったわけ。

もちろん合唱はひな壇に乗っているので、音が良く通るわけだが、それにしても、、、

オケは非力?

それともホールの所為?

日本のオケはこの曲を毎年何回も演奏しているだけに、

指揮者もそこまで「指揮」しなくてもいいわけなんだろう、佐渡さんはテンポチェンジ以外の

所は音楽作りに徹していた。

古典派の平均的なフレーズの長さを遥かに超えた息の長いフレーズを作り上げた。

テンポの対比は激しく、ベートーベンの性格そのものと言う感じであった。

巨大なスケールの曲を

壮大なスケールで描こうとした佐渡氏の演奏は

日本人離れしている。

バーンスタインを想起させる躍動感とスケールであった。

いつかバーンスタインのミサ曲をされるだろうと思うが、その日が楽しみである。

2008年12月21日 (日)

Beethoven's Diary

メイナード・ソロモン編


ベートーベンが書いた、日記、、、、か?と思うが

まぁ、四方山の事を書いた、雑記帖のようなもの、の翻訳。

それにソロモンよる注釈がついている。

この注釈がないと一体全体何について書いてあるのかまったくわからない。

そのような性質のもの。

このなかで自分にとって面白かったのは、

ベートーベンがインドの ヒンデュー教の本から

抜粋したセンテンスが書かれているという事。

勿論ドイツ語訳である。

どうやらこれらの文を使ってインド的?カンタータみたいなものを作曲するつもりがあったらしい。

「ベートーベンとブラフマン」

彼の宗教観が単なるキリスト崇拝ではなかった事を物語興味深い事実ですね。

ふむふむ。

ぜひ作曲していただきたかった。

2008年12月17日 (水)

シュテュットガルト国際バッハ週間

今年の2月に参加したシュテュットガルト国際バッハ週間のマスターコー スが

来年には行われない。

前回の素晴らしい経験から来年も行くつもりで楽しみにしていたのに、、、

講師のリリング氏は再来年の引退を表明しているだけに、今回ないとなると、

指導を受けるチャンスが、、、、、

それがないなんて、、、

残念を通り越して、失望である。

はぁ~~~~。

2008年12月16日 (火)

モンテヴェルディ「聖母の晩課」

日曜日に明治学院大学グリークラブ60周年記念演奏会で演奏されました。

モンテヴェルディを生で聞くチャンスは少ない事、

明学は家から近いこと、

ピリオド楽器が使用されること、

ソロの歌手達はその筋のプロであること、

ただけんが手に入ったこと、

日曜のマチネーで行きやすいこと、

これだけ理由があればさすがに行きます。

モンテヴェルディはイタリア人、時代をルネッサンスからバロックへと動かした偉大な作曲家群の一人であり、飛び切りの大物です。

演奏は、テノールの櫻田亮さんと同じくテノール谷口洋介さんのお二人が抜群にうまく、いや、

圧倒的にうまかった、、、のです。

彼らが3度でハモッた時の美しさは筆舌に尽くしがたく、

正真正銘の国際級のトップレベルと断言できるものでした。

いや~いいもの聞いた。


ところでモンテヴェルディの曲は、彼らしい平明な和声のなかに、

躍動感と瞑想がかわりがわり現れる曲で、教会の日常のサービスの曲なのに、あきさせない面白さがつまっていた。

いいコンサートだった。


かえりに、近所でイタリアンを食べたら、これまた大当たり!

イタリア~にお世話になった日であった。

2008年12月14日 (日)

フェルメール展

行ってきました。ちょっと前にね。

いや~すっげー人の数、

でした。

もうこうなっっちゃうと

見る気がうせます。


でもさすがにフェルメールなので頑張りました。


今回は「リュートを調弦する女」

一番でした。

あの「ぼかし」の技法


抜群でした。神業でした。遠くで見ているとはっきりと線が見えるような気がするのですが、、、、

ぼかしてました。

なんなんですかね~

暗めの色といい、なんといい、

抜群

あの一点で満足です。

有り難う。

他の人の絵はいかにフェルメールが異質であるかを確認するためにあるようなものでした。勿論、中には素晴らしいものもあったし、歴史的な流れで考えれば、フェルメールの絵よりも、人間の技って感じがして、つながりを感じました。

しかし、永遠の価値を持つものというのは、

そういう流れのなかから生まれながらも、

質がことなるんだなぁ~っと

思った次第。

公開リハーサル サイモン・ラトルとベルリンフィル2

ベルリンフィルについても言及しておきたい。



。。。。。危険を承知で言います。


。。。。。崩壊の危機が聞こえます。


CDを聞いたときに持つ違和感の原因がはっきりしたのです。

わたしには、パワーときらびやかなだけれどブレンドしない音色でブンブン鳴らしているようにしか聞こえません。

そこには統一された理念(音色、フレージング、アーティキュレーションやバランスについての)が存在していない。

インターナショナルスターが集まったオケが各々の流儀を使って、新しいサウンドを作ると言う意思がまったく感じられなかった。ムラと凸凹の塊。


これこそグローバリゼーションが生んだ21世紀のオーケストラの音の

最先端を行く!

               などとは、私には言えない。


私の感覚が古いのだろうか。。。。 

公開リハーサル サイモン・ラトルとベルリンフィル

行ってきました。ちょっと前にね。

最近時間が無くてリアルタイムに書けないのが残念。

まぁそれでも書きます。


ラトルにはドイツで一度お会いしています。今回はベルリンフィルに直接コンタクトをとって入れてもらいました。曲はブラームスの第3と第4の交響曲。

さて、、、


私はラトルという指揮者について今までどういうタイプの人かよく分らなかったのですが、今回ようやく腑に落ちました。

彼はディティールフェチ

でした。

つまり、本来であれば絶対に聞こえないようなどんな小さな事でも、彼がそこに意味を見出せば、聞こえるようにせずにはいられないのです。

そのため、相当な力技というか、無理なバランス操作や表情付けを敢行します。

こういうのは、伴奏と旋律がはっきり区別されているような

ホモフォニック音楽でやると危険です。しかし、後期ロマン派の音楽で

大管弦楽団が必要な曲はえてしてそれらの区別があいまいな事があり、

ポリフォニックな対応を迫られる事が多いくあるので、

ラトルにはぴったりと言えます。

これが彼が大管編成曲がうまい理由です。

あとハイドンが抜群なのも、これで納得がいきます。ハイドンはホモフォニックな顔をしたポリフォニーですので。

しかしモーツァルトからベートーベン・シューベルトを抜け、

ブラームスまでのドイツ音楽ではどうか?

これは微妙な問題だ。なぜならこれらの音楽は基本的にはホモフォニーだからだ。随所にポリフォニーな箇所がある事は確かだが、、、、

サー・サイモンはこれらの楽曲のなかにポリフォニックな箇所を人より

も遥かに多く見つけてしまうのだろう。それは勿論かまわない。


問題はそれらは本当に聞こえて然るべきものなのかどうか、である。


つまり、管弦楽法的に考えて、無理なバランス操作をしなければ

絶対に聞こえないようなものを聞かせる必要があるのか?


これを是とするか、邪とするかで評価が分かれる。

不自然・恣意的ととるか、発見・意思的ととるか。

そしてこれは、「作曲家が施した管弦楽法が適切なのかどうか」

という問いにもなる。「本当は聞こえて欲しかった」と思うか。


勿論これは

unanswered question

です。

私はどう思うのかって?

ははは、彼のわが道を行くという根性・度胸・そして個性に乾杯!

でもその結果には?だって!だってあります。

そりゃそうでしょう?

2008年12月 6日 (土)

「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」

川口マーン恵美著

語り口のよさ、というか読みやすさから、駆け出しの人かと思ったら結構著作がありました。すみません。一気に読める文章です。お勧め。

さてタイトルの答えは実際には結論が出ない、というか結論は個人的なものにならざるをえない類のものである。

筆者のフルトベングラーよりの記述に眉を寄せつつも、
ベルリン・フィルの古参・引退メンバーがいかにカラヤンを高く評価していたかが分る本である。

また順位をつけようとする事に反対し、懸命に結論めいた事を避けようとする団員の心のやさしさに感銘を受けた。

しかし著者の執念が実ったのか幾つかの思い発言がメンバーからでる。

「私は常に自分の為に音楽を演奏してきた。指揮者のためではない。しかしもし私が自分以外の人間のために音楽をしたことがあるのなら、それはフルトベングラーのためである。」

強烈な尊敬と親愛の表明であろう。私は演奏行為は「自分と周りにいる人(観客)の為に弾き、作曲家への感謝の表明」だと思っているので、
「このオヤジ、エゴだな」と思いつつも、そんな思いを捧げられる
フルトベングラーのすごさを垣間見てしまう。

しかし、こんなセリフもある。
「私が入った頃、フルトベングラーのファンだったわけだが、先輩奏者にこう言われたよ、「お前はニキシュ(前任の指揮者)を知らんからなぁ」と。つまり、人が昔を懐かしむのは普通のことなんです。」

そりゃそうだ。


カラヤン、フルトベングラー、

どちらが偉大か?という問いに答えは無い。

しかしどちらの指揮者も人に昔はよかったと思わせるだけの偉大なカリスマを持ち、卓越した演奏をした事は事実であろう。我々の最大のライバルだったりもするのだ。

ほかにもはっとする言葉があるので、オーケストラ音楽好きなら読んで損なし。

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