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2015年7月

2015年7月28日 (火)

マーラー「大地の歌」について

大地の歌かぁ。

8月15日に演奏会をすることが決まり、ダン・フォレストの「生けるもののためのレクイエム」が最初に決まった。カップリングの曲で真っ先に思いついたのは、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」だった。演奏会の副題は「こんなピエロに誰がした!」だった。郡司先生からは即座に却下されたが、今でもいい企画だと思っている。ただ、過激なのも理解できるので、これはしょうがないと納得したものの、ここから選曲に大いに悩むことになった。原因のひとつは、浜離宮朝日ホールの舞台が小さいことだ。編成が大きい曲は出来ない。ラターのレクイエムなど小さい編成のものもあるが、レクイエム2曲というのはちょっとなぁと思い悩みながら、ある日突然大阪に行くことになった。用事を済ませ、余った時間で大阪の有名楽譜書店に行ってみた。ここで見つけてしまったのだ、「大地の歌」(シェーンベルク編)を。その存在は知っていたが、録音を聞いたこともなかった編曲。大判のスコアを立ち読みしながら、どうすべきか悩んでいた。オケは小さいとはいえ、レクイエムよりは大きい。あまり贅沢なことはしたくない。そんなこともプログラミングでは重要だ。悩んだ末とりあえず購入し、東京に持ち帰った。
 まずあらためて歌詞を読んだ。正直どう考えるべきか当初は分からなかったことを告白しておこう。
どうも世間で言われてるほどには人生の空しさや、無常観、厭世感、憧憬、別離等、およそ人生の儚さ、無意味さを感じなかったからだ。はて…
とにかく聴き始めた。そしてぶっ飛んでしまった。
咆哮する管楽器、叫び続けるテナー、荒ぶる憤りの嵐のような第1楽章。「暗闇なのだ、生は、死は」というテーゼ。
そして彷徨える寂寥感で満たされた第2楽章。このコントラストは強烈だ。

第3〜4楽章は、打って変わって穏やかで、暖かい歌詞の歌となるが、最初のふたつの楽章を聴いた後では、このさらなるコントラストにどう対処すべきだろうか?どんなに明るく、どんなにロマンスを仄めかしても、それは過ぎ去った過去であり、美しい思い出であっても、今に繋がっていない。美しければ美しいほど、痛みが増すというパラドックスだ。

第5曲は、酒が戻ってくる。やけを起こした呑んだくれの歌は、微妙な明暗を持っている。全体としては軽いのだが、それがいつの間にかなんとも言えない微妙な色調を持って鳴り響く。世界観が第3、第4よりも現在に近い感じがする。それはあたかも次楽章への長い序章のようでもあるし、第1楽章への精神的再現部でもあるかも知れない。

そして長大なAbschied。
第2楽章の孤独な者との関連性を私は感じざるを得ない。してみると、
この曲は、
第1、第2によるペア(Aセクション)、第3、第4によるペア(Bセクション)、第5、第6によるペア(A'セクション)で構成されていると言えようか。
さらに、各楽章の主旋律は、第1の主旋律の音程関係との類似が多いことから、Bセクションを展開部と考え、A'は再現部とすることが可能かもしれない。
こうなると長大な第6は実はふたつの詩で構成されており、最後の詩の部分はすべてを解決するコーダとすべきかもしれない。
従ってこの60分を超える曲は、ひとつの、長いソナタ形式ということになるかもしれない。
閑話休題、abschiedについてだった。この楽章の目的は何だろうか?上記したような意味におけるすべてを解決する楽章なのだろうか?正直言って、それは分からない。残念ながら、マーラーは、明確な答えを与えてくれない。最後の和音が通常の意味での解決和音でもなく、永遠(ewig)に繰り返され終わることなく、何度でも戻ってくる(永遠回帰)のように、終わります。
マーラーは、この曲の初演を聴かずに亡くなってしまいますが、初演を指揮したヴァルターに向かってこう言ったそうです、「この曲を聴いたら自殺者がでるのではないだろうか」と。

大地の歌: 神崎正英氏による歌詞対訳

2015年7月27日 (月)

解説: 生者のためのレクイエム

以下は、
作曲家ダン・フォレスト氏のホームページ(danforrest.com)に掲載されている彼のRequiem fro the Livingの解説の抜粋翻訳である。抜粋箇所は、本ブログの筆者が任意で行った。翻訳のミスや、稚拙な日本語はすべて筆者に起因する。


全体としてこの曲は死者だけでなく生者にも安息(レクイエム)を求める祈りです。それは、「彼らに安息をお与えください」というよりも、「我らに安息をお与えください」、ということです。
曲全体は冒頭に提示される3つの音で構成されるモチーフによって強く繋がっています。例えば、第1楽章の展開部の基礎となっていますし、第2楽章(歌詞は用いていないものの、伝統的なDies Iraeを暗示しています)の伴奏形の音素材や、第4楽章の冒頭(明白ですね!)、そして下降音型がもう1音先に行き、目的地/ゴール(もしくは安息という言葉が望まれるかもしれませんが)に向かい始めます。第5楽章の再現部にあたる部分もこのモチーフで満たされますが、最後の最後にこの3音モチーフは下降せず、上昇する動きを見せます。それはあたかも、天国に到着したかのように。

第1楽章は、Requiem(安息)とKyrie(憐れみ)を求め祈る者の嘆きを吐き出しています。
存在する人類全てに共通する悲しみと格闘する嘆きを正面から見つめています。


第2楽章は、我々がいつも戦っている痛みの問題を身を切るように激しく表しています。痛みは、多くの人々の信念や信仰に危機をもたらしますが、
この楽章は、「何とむなしいことか、すべてはむなしい」という(旧約聖書の中の)伝道の書を反復し、怒りと苦しみの意味を解き明かします。
中間部はヨブ記を引用します。ヨブは聖書に現れる人物の中で、痛みの問題における最高の例です。それは彼が、その最も暗い(辛い)時には、「生てこなければ良かった」とさえ言ってしまうからです。

第3楽章は、伝統的な順番から逸脱して、Agnus Deiです。曲全体が持つストーリー性において、ここで私は、(前2楽章で示された)嘆き、痛み、崩壊などの全ての失敗から人類を自由にしてくれる神の小羊と出会う必要があるからです。

このストーリーに於いては、やはり神の小羊を認識した後で、遂にSanctusに向かえます。通常の典礼における順番では、SanctusはAgnus Deiの前奏曲となりますが、ここでは、返事となります。興味深いことに、この意味において、「天国と地球(大地)はあなたの栄光で満たされています」という歌詞を単に礼拝の瞬間としてだけでなく、痛みの問題に対する1つの聖なる解答として見るのです。もう1度ヨブ記を見てみましょう。痛みの問題に対する神の返答は、文字通り、「見なさい、私の創造の仕事を、私の超越するパワーと荘厳を!」です。
そして当然ヨブは、それを認識することによって、謙虚な気持ちを持ちます。ですから、ボーカルスコアのこの楽章の頭のところに、ヨブ記38章からの引用を載せました、「私が地の基礎を定めた時に、お前は何処にいたのか?…中略…星々が共に歌い喜んだ時に?」
というわけで、もうお分りかと思いますが、この楽章は天と地の奇跡(pleni sunt caeli et terra gloria tua)を痛みの問題に対する聖なる答えとして表現しています。私がSanctusのテキストにつけた音楽は、文字通り神の驚嘆すべき栄光を3つの場所で描写しています、すなわち、宇宙(ハッブル宇宙望遠鏡による超深宇宙領域の写真からインスピレーションを受けました)、宇宙を周回している国際宇宙ステーションから見た地球(YouTubeにある素晴らしい光(都市の、国の、河の、嵐など)の映像の数々!)、そして最後に人、神の驚嘆すべきイメージであり、天国の全ての奇跡よりも更に直接的に神の栄光を証明する人類です。
上記3つの思考が、この楽章の3つのセクションの源泉です。ハッブル写真のように霊妙なセクション、それから、「地球に降りてきて」で始まるもっと暖かいセクション、動きを伴いながら徐々に荘厳なっていきます。そしてそれから賑やかなエネルギーの最終セクション、生とメトロポリスのエネルギーに満ちた都市の中心に降り立ちます。そこにいるのは、神のイメージであり、天国そのものより偉大な神の創造物である人間なのです。

終楽章は端的に言って、安息や平和への到達になります。神からの永遠の光が、神を求める者に与えられるというだけでなく、今、ここで、この地球に生きる我々、生きとし生けるもののための安息(我らのレクイエム)が、神の中に見つけられるのです。私は意識してマタイ伝11章28節を引用しました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
なぜなら、これが入祭唱における安息の祈りへの答えだからです。キリストこそが、我々の安息であると。
そのために、英単語の「rest」と「Requiem」が同時に歌われるようにしました。スコアでご確認いただくか、演奏の時に聞いてください。テノーソロの終わりとともに合唱が、Requiem aeternamとラテン語で再び歌いだす箇所です。
そして言うまでもないことかもしれませんが、オーケストラの最後の上昇する3音はメタ動機であり、安息への祈りに対する音楽による最終的な答えです。そう、見つけたのです。遂に扉は開かれたのです。

Requiem for the Living

「先生!2015年の8月15日、浜離宮ホールが空いていますよ!」

2013年の夏の夜、毎年3月に行っている追悼演奏会のための曲、まだ知らないレクイエムを探して、youtube上をサーフしていた僕は、この曲に出会った。「Requiem for the living」by Dan Forrest。知らない曲、聞いたことがない作曲家名。そう簡単に隠れた名曲に当たることなどない。特に期待もせず聴き始めた。
冒頭のオルガンの短音を聞いた瞬間、「おっ」と思ったのを今でも覚えている。それが、下降し不協和となり、次の瞬間いくぶんか解決、あくまでも少しだけ。若干の緊張を残しながら少しずつ上がるテンション。ヴァイオリンに導かれる跳躍とやはり下降する美しい動機。それは何かを掴もうとして届かないもどかしさのようだった。
もう息はすっていなかったと思う。完全に惹きこまれていた。
第2楽章は、あの時点では何を言っているか分からなかったVanitas。Dies iraeの代わりであろうことは直感で分かった。小林秀雄の「疾走する悲しみ」が頭をよぎったのを今でも覚えている。激しい憤り。夢中になって聴いていた。
第3楽章、あれ、Agnus Dei?とは思ったが、ボーイ・ソプラノの声が前2楽章で積もり積もった緊張を解きほぐしていく。正直音程がかなり怪しかったので、「う~ん」と思ったのも、今となっては楽しい思い出だ。しばらくして鳴り響く愛らしいグロッケンとハープのデュオ。フルートが入った時点で拍節が分からなくなってウキウキしたっけな。そしてSanctusが始まった。最後の踊るような部分に入ったところで、もう駄目だった。完全にやられた。あまりの興奮と感動で多分泣きながら聞いていた。そのため正直Lux aeternaのことはよく覚えていない。
Luxが本当によく書かれており、この曲のドラマ性において必要不可欠であることを理解したのは、ずぅっとあとになって、実際にスコアを勉強するようになってからだった。今では、優しさと暖かさと、美しさと希望に満ち溢れたこの楽章が持つ音楽的機能についても、理解していると思う。最上の楽章と言ってよいだろう。
さて聴き終えて興奮している自分は、いつやるかを考えていた。2014年の追悼演奏会はもう決まっていたので、やるなら2015年ということになろう。しかし、2015年3月の追悼演奏会は敬愛する上田益先生からの依頼で、新作「スターバト・マーテル」の初演をする栄誉を預かることになり、「Requiem for the living」はしばらくお蔵入りすることになるはずだった。あの電話が鳴るまでは。「先生!2015年の8月15日、浜離宮ホールが空いていますよ!」電話口から聞こえてきたよく知っている声を聞きながら、「これは運命だ」と思わざるを得なかった。
8月15日が何の日かは言うまでもない。しかも今年は節目の年。レクイエム、しかも生きとし生けるもののためのこの曲は、この日に演奏されることを要求していたのだろう。
練習を始めて、歌詞を読み、Danと連絡を取って話をし、つくづく良くできた曲だと思う。
まずは曲のプロットについて、Dan自身による解説を是非よんでいただきたい。

解説: 生者のためのレクイエム


人間の人生において、彼が想定したような絶望や喪失感は多くの人が経験することだろう。神に対してということだけではなく、人生に、そして人に。表現されていることは、真っ暗だが、それは痛切な美しさを帯びている。そこには旋律が必ずあり、どのような痛みを表現していようとも、耳を傾けずにはいられない。もっと激しい、野蛮な表現も可能だったはずだ。何故彼はそれを選ばなかったのか。あくまで私見だが、このようにあくまで音楽的であるが故に、我々は今そこで表現されている何かについて考えることが出来るからではないかと思う。例えば、目をそむけることしか出来ないような戦場の凄惨な写真を見ながら、戦争について考える余裕あるだろうか。一瞬のうちに恐怖を植え付ける写真は、インパクトはあっても、その瞬間のことになってはしまいか。レクイエムにおいては、リスナーは聴き、その間中考え続けることが可能であり、ある意味要求されている。その事がより深い経験と理解をもたらすのではないだろうか。これがVanitasを最もポピュラーな楽章としている理由ではないかと思う。
Agnus Deiにおいて希望が現れる。ここで初めてソロがでる。お告げだ。そうだ、「希望」は必ずどこかにある。明けない夜が無いように、必ず。しかし、「希望」を見つけられるのか、見つけた「希望」は信じられるのか?
Sanctusにおいて、それは「Yes」と力強く宣言される。しかし意外なことにそれはまず囁くように始まる。通常Sanctusは神への賛美だから最初から騒がしい。ここでは、静かに、繰り返し、何度も、Sanctusと優しく繰り返す。それは信頼してもらえるまで何度でも、いつまでもそこにいることを表しているかのようだ。曲が進む。瀕死の魂の頭が少しずつ上がってくる。音楽の流れは止まらない。暖かさを増していき、包み込むような中間部を経て、最後に復活する。喜びと希望に満ち溢れた歓喜の踊り。爆発するエネルギー。そしてこれを起こせるのは、人間だけだという確信が芽生える。たとえ神に導かれたとしても、実をなすのは、「人」である。
 大きな復活を経験したあと、ついに「安息」が現れる。合唱の最初の入りのところに、gently floating (柔らかく漂うように)と指示がある。大地から離れ、光(Lux)のもとに
飛び立つのだろう。そしてついにイエス(テノール)が語る、「私のところに来なさい。安息を与えよう。」
 実際の人生において、このような宣言を出来る人間はいない。だが、もし私たち一人ひとりが、今隣にいるパートナーに毎日一瞬でも安らぎを与えられたら、その積み重ねは、きっと神の言葉のような奇跡を、Pacem(平和)を生むだろう。かつて、音楽は芸術では無かった。音楽は神の理を表すとし、研究された。それは音楽に強大な力があることを端的に示す。悪用されもした音楽は、遂には、個人の個性の発露としての芸術というところにまで矮小化されてしまった。しかし音楽自体は、その力を失ってはいない。それは音楽が複数の人間が心を合わせ、何かを成し遂げる、その際に必要な、ハーモニー、調和と協力を人に課すからだ。隣にいる人、後ろにいる人、前にいる人、5メートル離れたところにいる人すべてが、演奏を通して「和」を作る。これが音楽をする心であり、このような「和」の心、柔軟で寛容な心がある限り、音楽は人を動かすことが出来る。Dan ForrestのRequiem for the livingは、そのような「和」の精神が、究極の「救い」なのだと、私に教えてくれたのだ。
 以上は、作曲家自身の意図から完全に逸脱しているかもしれない。彼の意図は解説に書いてあるからだ。しかし、名曲は、曲自体が演奏家に新しい解釈を生みだすことを要求する。それがその曲が永遠の命を持っているかどうかということだ。私の想いは、これから生み出される幾千の解釈のひとつでしかないけれど、日本に於ける最初の一粒になれることを、誇りに思う。

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