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2015年7月27日 (月)

Requiem for the Living

「先生!2015年の8月15日、浜離宮ホールが空いていますよ!」

2013年の夏の夜、毎年3月に行っている追悼演奏会のための曲、まだ知らないレクイエムを探して、youtube上をサーフしていた僕は、この曲に出会った。「Requiem for the living」by Dan Forrest。知らない曲、聞いたことがない作曲家名。そう簡単に隠れた名曲に当たることなどない。特に期待もせず聴き始めた。
冒頭のオルガンの短音を聞いた瞬間、「おっ」と思ったのを今でも覚えている。それが、下降し不協和となり、次の瞬間いくぶんか解決、あくまでも少しだけ。若干の緊張を残しながら少しずつ上がるテンション。ヴァイオリンに導かれる跳躍とやはり下降する美しい動機。それは何かを掴もうとして届かないもどかしさのようだった。
もう息はすっていなかったと思う。完全に惹きこまれていた。
第2楽章は、あの時点では何を言っているか分からなかったVanitas。Dies iraeの代わりであろうことは直感で分かった。小林秀雄の「疾走する悲しみ」が頭をよぎったのを今でも覚えている。激しい憤り。夢中になって聴いていた。
第3楽章、あれ、Agnus Dei?とは思ったが、ボーイ・ソプラノの声が前2楽章で積もり積もった緊張を解きほぐしていく。正直音程がかなり怪しかったので、「う~ん」と思ったのも、今となっては楽しい思い出だ。しばらくして鳴り響く愛らしいグロッケンとハープのデュオ。フルートが入った時点で拍節が分からなくなってウキウキしたっけな。そしてSanctusが始まった。最後の踊るような部分に入ったところで、もう駄目だった。完全にやられた。あまりの興奮と感動で多分泣きながら聞いていた。そのため正直Lux aeternaのことはよく覚えていない。
Luxが本当によく書かれており、この曲のドラマ性において必要不可欠であることを理解したのは、ずぅっとあとになって、実際にスコアを勉強するようになってからだった。今では、優しさと暖かさと、美しさと希望に満ち溢れたこの楽章が持つ音楽的機能についても、理解していると思う。最上の楽章と言ってよいだろう。
さて聴き終えて興奮している自分は、いつやるかを考えていた。2014年の追悼演奏会はもう決まっていたので、やるなら2015年ということになろう。しかし、2015年3月の追悼演奏会は敬愛する上田益先生からの依頼で、新作「スターバト・マーテル」の初演をする栄誉を預かることになり、「Requiem for the living」はしばらくお蔵入りすることになるはずだった。あの電話が鳴るまでは。「先生!2015年の8月15日、浜離宮ホールが空いていますよ!」電話口から聞こえてきたよく知っている声を聞きながら、「これは運命だ」と思わざるを得なかった。
8月15日が何の日かは言うまでもない。しかも今年は節目の年。レクイエム、しかも生きとし生けるもののためのこの曲は、この日に演奏されることを要求していたのだろう。
練習を始めて、歌詞を読み、Danと連絡を取って話をし、つくづく良くできた曲だと思う。
まずは曲のプロットについて、Dan自身による解説を是非よんでいただきたい。

解説: 生者のためのレクイエム


人間の人生において、彼が想定したような絶望や喪失感は多くの人が経験することだろう。神に対してということだけではなく、人生に、そして人に。表現されていることは、真っ暗だが、それは痛切な美しさを帯びている。そこには旋律が必ずあり、どのような痛みを表現していようとも、耳を傾けずにはいられない。もっと激しい、野蛮な表現も可能だったはずだ。何故彼はそれを選ばなかったのか。あくまで私見だが、このようにあくまで音楽的であるが故に、我々は今そこで表現されている何かについて考えることが出来るからではないかと思う。例えば、目をそむけることしか出来ないような戦場の凄惨な写真を見ながら、戦争について考える余裕あるだろうか。一瞬のうちに恐怖を植え付ける写真は、インパクトはあっても、その瞬間のことになってはしまいか。レクイエムにおいては、リスナーは聴き、その間中考え続けることが可能であり、ある意味要求されている。その事がより深い経験と理解をもたらすのではないだろうか。これがVanitasを最もポピュラーな楽章としている理由ではないかと思う。
Agnus Deiにおいて希望が現れる。ここで初めてソロがでる。お告げだ。そうだ、「希望」は必ずどこかにある。明けない夜が無いように、必ず。しかし、「希望」を見つけられるのか、見つけた「希望」は信じられるのか?
Sanctusにおいて、それは「Yes」と力強く宣言される。しかし意外なことにそれはまず囁くように始まる。通常Sanctusは神への賛美だから最初から騒がしい。ここでは、静かに、繰り返し、何度も、Sanctusと優しく繰り返す。それは信頼してもらえるまで何度でも、いつまでもそこにいることを表しているかのようだ。曲が進む。瀕死の魂の頭が少しずつ上がってくる。音楽の流れは止まらない。暖かさを増していき、包み込むような中間部を経て、最後に復活する。喜びと希望に満ち溢れた歓喜の踊り。爆発するエネルギー。そしてこれを起こせるのは、人間だけだという確信が芽生える。たとえ神に導かれたとしても、実をなすのは、「人」である。
 大きな復活を経験したあと、ついに「安息」が現れる。合唱の最初の入りのところに、gently floating (柔らかく漂うように)と指示がある。大地から離れ、光(Lux)のもとに
飛び立つのだろう。そしてついにイエス(テノール)が語る、「私のところに来なさい。安息を与えよう。」
 実際の人生において、このような宣言を出来る人間はいない。だが、もし私たち一人ひとりが、今隣にいるパートナーに毎日一瞬でも安らぎを与えられたら、その積み重ねは、きっと神の言葉のような奇跡を、Pacem(平和)を生むだろう。かつて、音楽は芸術では無かった。音楽は神の理を表すとし、研究された。それは音楽に強大な力があることを端的に示す。悪用されもした音楽は、遂には、個人の個性の発露としての芸術というところにまで矮小化されてしまった。しかし音楽自体は、その力を失ってはいない。それは音楽が複数の人間が心を合わせ、何かを成し遂げる、その際に必要な、ハーモニー、調和と協力を人に課すからだ。隣にいる人、後ろにいる人、前にいる人、5メートル離れたところにいる人すべてが、演奏を通して「和」を作る。これが音楽をする心であり、このような「和」の心、柔軟で寛容な心がある限り、音楽は人を動かすことが出来る。Dan ForrestのRequiem for the livingは、そのような「和」の精神が、究極の「救い」なのだと、私に教えてくれたのだ。
 以上は、作曲家自身の意図から完全に逸脱しているかもしれない。彼の意図は解説に書いてあるからだ。しかし、名曲は、曲自体が演奏家に新しい解釈を生みだすことを要求する。それがその曲が永遠の命を持っているかどうかということだ。私の想いは、これから生み出される幾千の解釈のひとつでしかないけれど、日本に於ける最初の一粒になれることを、誇りに思う。

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