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2020年10月

2020年10月31日 (土)

ベートーヴェンのミサ・ソレムニスを想う

長年疑問に思っていたけれど、当然こうなるよねと思っていただけで、ろくに調べもせず、ましてや、友人である素晴らしい学者諸氏にすらもきくことがなかったある疑問が、ひょんなところで解決した。

 今や常識となった(よね?)と言える、バッハなどのルター派の教会音楽におけるconcertistrepienistの演奏習慣が、カトリック音楽圏に於いてどうだったのかという疑問である。

 答えは、やはり同じ演奏習慣があったということである。それは記念年よろしくということで演奏され、、たはずだったハ長調ミサ曲のスコアの校訂報告の一部に書かれていた。ベーレンライターから出版されたものである。

Thanks.

 上述したように、私はそれを当然そうだったであろうと思っていた。何故ならば、協奏曲を演奏する時の演奏習慣がConcertistRipienistの原理と全く同じだからである。すなわち、ヴァイオリン協奏曲に於いては、ヴァイオリンのソリストは、tuttiで演奏するヴァイオリン・パートも弾くのである。だから合唱でやってもおかしくはないと思っていた。だから、自分と合唱曲をやったソリストは知っているが、必ず最後の合唱部分をソリストにも歌ってもらっている。

 しかしだ、しかしだよ、そうなるとだなぁ、ミサ・ソレムニスのソロ・パートっていうものに対して持ってるイメージはかなり変えないといけないのではないかと思うわけだ。何故ならば、それを歌っているのはソリストでなく、合唱団員だからだ。多分パート・リーダーとかだったんだろう。そうなるとどうなる???

 いや、ここはまず自分の思考を順を追って回想しようじゃないか。

 まず考えたのは、実はコンチェルティストとリピエーノの習慣が広まらない理由だった。ソリストが歌いっぱなしになるから負担が大きいとか、色々あるんと思うんだけど、結局のところ音楽音響的に必ずしもプラスにならないからだと思う。ソリストがソリスト然として合唱に入ったら統一感を破壊しかねないし、邪魔しないように合唱然として歌うなら、いらねんじゃね?ってなるからだよ。

これはさ、協奏曲でも、おんなじなんだよね。つまり、あんまり意味がないんだよね。

いや、でもね、これ逆なんだと気がついた。

 ソリストが合唱に入るんじゃあない。合唱団員がソロのパートを歌うんだ。これはかなり違うぞ。我々数多の録音と実演によってソロ・パートはソリストが歌うもんだも思ってきたが、実はそうではなかったんだな。これは音響的イメージがかなり変わる。

 ベートーヴェンは真正のミサ曲を書くことに拘っていた。19世紀にセシリア運動があった。モーツァルトやハイドンの書いたアリアがあるミサ曲はオペラ的であり、世俗的すぎるので、教会音楽として相応しくないとして否定的な評価を受けていた。ミサ・ソレムニスはそのありとあらゆる意味で大きな姿が教会音楽には相応しくないと言われていても、そこには神への敬虔な想いがあると認める人たちもいたのだ。これは、世俗的だという評価とは全く違う。

 話を、ミサ・ソレムニスそのものに戻す。では、合唱団員がソロ・パートを歌うということは実際にはどういうことなのか。それはつまりもっと素朴なのだったということではないだろうか?僕たちはここで、そうここでまた、見るのだ、19世紀ロマン派の音楽感に毒されたベートーヴェン演奏の影響を!巨大なものはより大きく、より華々しく!

 ベートーヴェンがミサ・ソレムニスにおいて、人間を超越した神を表そうとして、いかさま拡大した要求と表現をしていることは誰しも認めるだろう。しかし、我々は本当に敬虔な者の音楽感に沿ってこの曲について考えたことがあるだろうか?一度、いや何度でも、教会音楽としての、敬虔な者の書いた真正の教会音楽として考えてみると違う姿が見えて来ないだろうか?



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