なぜ合唱団はオーケストラの前に立ったのか①
去る3月某日、埼玉の某所において行われた演奏会において、
せっかくの記念年がパンデミックによってぶっ飛んでしまった作曲家の巨大なミサ曲を演奏しました。
その時の配置がこれです。
全長36メートルの奥行を持つ舞台上に広がることおよそ30メートル、合唱の最前列からオーケストラの最後列までの距離です。
合唱団は当節を反映して全員マスクを着用し、左右1.5メートル、前後2メートルの間隔をあけました。
さらに市松模様に並んでいます。
したがって真後ろの歌手は4メートル後ろに居るということになりました。
合唱団の最後列とソリストも4メートルの距離を取り、オーケストラも同様に離れて座っています。
ソリストも横1.5メートル離れており、アルトとテノールの間にいる指揮者も1.5メートル離れている。
つまり、ソプラノソリストとバスのソリストは6メートル離れていることになります。
およそソーシャルディスタンスここに極めりと言わんばかりの配置ですが、本稿で検討したいのはそのことではありません。
本稿の主旨はタイトルにあるように、なぜ合唱団はオーケストラの前に立ったのかということでです。
そして、その理由は感染症対策ではないのです。
もちろん、オケの前に立つことによって、合唱団の飛沫は合唱団内での処理で済ませることが出来ます。
さすがにこの配置で危機感を持つオケ奏者は居ないません。もちろん、現状では大きな理由になります。
しかし本当の理由は、この配置が歴史的に正しいからです。
以下は1828年のパリでの配置です。Chef d'orchestre(指揮者)の左右に合唱団が配置されているのが分かります。
つまり、合唱団はオーケストラの前にいたのです
1828年と言えばベートーヴェンの死後1年です。
また以下は1844年のドレスデンでの配置です。
これもまた、合唱団がオーケストラの前、指揮者を挟むように配置されています。
周知のように、J.S.バッハのカンタータは合唱団によって歌われたわけではなく、4人のソリストが合唱の部分もソロの部分も歌っていました。
教会は小さく、音楽家が演奏する場所は狭く(お金もなかったし)、各パートに一人の奏者しかいませんでした。
そしてヨーロッパ中でこのような状態が普通だったのです。
日常的に大きな合唱団が演奏できるような大きな教会のほうが少なかったです。
つまり、歌手がオーケストラの前に立つことが当時の習慣だったのです。
そして、その習慣のまま時代が下るとともに合唱団は大型化していきました。
例えばハイドンの「天地創造」の初演は合唱団が60人いたことがわかっています。
大バッハには望むべくもなかったことでしょう。
また、1844年の別のドレスデンの団体の配置図では合唱団がオケの左右を挟むようにして配置されているものがあります。
図の大きさから合唱団の大きさがわかりますが、合唱団が肥大化しオーケストラと同じかそれより大きかったことが分かる資料です。
そしてこの合唱団の肥大化により、合唱団は19世紀も中葉を超えてからオーケストラの後ろに配置されるようになったのです。
指揮者を見やすくするための処置であったと思われます。
つまり、1820年代、つまりベートーヴェンのミサ・ソレムニスが初演された時代においては、
合唱団はオーケストラの前に立って歌うことが普通だったのです。
それはベートーヴェンにとっても普通のことだったのです。
では、実際にこの配置でやってみた結果、どのようなことが分かったのでしょうか。
それは次回に書くことにしますしょう。
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