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書籍・雑誌

2009年7月31日 (金)

山田一雄著 「一音百態」

通称「ヤマカズさん」という指揮者の方がお書きになった伝記のような本を読んだ。

大変失礼な事だが、私はこの方を存じ上げなかった。

今まで実演はおろか、録音すら聞いたことがなかった。

しかしここのところ生前の「ヤマカズさん」をご存知の方にお会いしてお話を伺った。

マーラーの「千人」やストラビンスキーの「春の祭典」の日本初演や現代音楽擁護など、

日本音楽会になくてはならない方、発展に寄与された方と伺い、興味を持って

「一音百態」を読んだ。

戦前・後の日本の音楽界の事が興味深い。

「ヤマカズさん」が学生のころは、音楽家の地位は低かったそうである。

これはちょっと驚きだ。明治維新によって日本は西洋化・西洋近代化をはかり、

クラシック音楽自体はむやみに崇められていたのではないか、

そしてそれが今でも続いている、、というようなことを思っていたからだ。

自分の不勉強を恥じ入るばかりだが、では現在の敷居の高さは一体いつ頃から、

また何が原因で始まったのだろう?

話を本に戻そう。

日本で始めてチャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」を全曲バレエ公演する時、

オケ譜が手に入らず、「ヤマカズさん」がバレエ練習用のピアノ譜からオーケストラ用に

編曲されたという。しかもかなり長い間使われていたという。

これなども今では信じられない状況であるし、またぜひ聞いてみたい。

「ヤマカズさん」はバレエ無しでも十分堪能できるよう、編曲には工夫を凝らしたことを

書いておられる。チャイコフスキーとの違いを知るのもさりながら、

ピアノ譜からの編曲というのが興味をそそる。

戦後の日本の音楽状況にはちょっと不満がおありになったのだろうか。

ここのくだりは面白いのでちょっと引用させていただく。

     プロの人たちの技術的完璧主義は貴重なことながら、

     技術だけが一人歩きしては、恐ろしく冷淡な存在にもなりやすい。

     技術はあっても、「人間の肉体」がそこにあるという実感が伝わらない。

     肉体の一部(例えばだけ)が芸術家であり、「演奏」という表現を単なる

     「技術なり」と理解してしまうのでは、やはり音楽の原点から外れているように

     思う。

      

やはりこういう時期、つまり技術偏重の時期があったのだろう。

しかし、「指だけ」という表現はまったく的を得ていて、笑ってしまった。

最後のほうは「心」に関する想いが重点を占めていて、当時の技術的完璧主義が如何に

のさばっていたかがうかがい知れる。

さてもし「ヤマカズさん」がご存命だったら、今の状況をどう思われるのだろう。

近年、ソリストの技術的完璧度はさらに上がる一方ではなかろうか。

そしてレパートリーの固定化が進み、指揮者無し演奏できる曲は増える一方である。

「ヤマカズさん」が思われるような音楽の原点は、今でも存在しているのであろうか?

2009年4月25日 (土)

翻訳されるべき本

昨日あの名著

C.Brown "CLASSICAL & ROMANTIC PERFORMING PRACTICE 1750-1900

を要約・翻訳されている方のブログを拝見した。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/cbrown-7640.html

これはとんでもない事である。

すこしでもピリオド情報に興味があるのなら、読んでいただきたい本であるのだが、

如何せん、本がでかい事もあり、翻訳も情報満載のため相当時間がかかると思われる。

私は心から応援するぞ!

そうこうするうちに、そういえば、日本語になってない(確認できない)素晴らしい英語の本があるなぁと思い立ち、列挙する気になった。

以下の本は、勿論上記の本も含めて、私がお世話になった(ている)本で、

翻訳されるべきと思うものです。

ただ、思いつきで書いているのいずれリストは大きくなっていくでしょう。

Dance and the Music of J.S Bach (Expanded Edition), Meredith Little and Nalie Jenne著

The Essential Bach Choir, Andrew Parrott著

Beethoven on Beethoven, William S. Newman著

Dvorak to Duke Ellington, Maurice Peress著

Elements of Sonata Theory: Norms, Types, and Deformations in the Late-eighteenth-cnetury Sonata, James Hepokoski, Warren Darcy共著

Introduction to Post-Tonal Theory, Joseph N. Straus著

Phrase Rhythm in Tonal Music, William Rothstein著

2009年2月26日 (木)

フリッツ・ブッシュ著「指揮者のおしえ」

以前CDを聞いて感動したFritz Buschの著作「Der Dirigent」(直訳すると指揮者)の邦訳を読んだ。

http://dialzero.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/fritz-busch.html

幾つかの点でブッシュの博識に驚かされた。

また多くの金言も含まれるので、書き出してみたい。

1.レオポルト・モーツァルトのヴァイオリン教本は非常に興味深い

2.クヴァンツの古典派直前の時代の著書

彼の世代でこの2つを読んでいる事は普通であったとは思えない。

しかも彼はチューニングピッチのAがバッハ・モーツァルトの時代から約半音高くなってしまっていると言っていのだ。彼は教会のオルガンなどを証拠としている。

何という向学心だろうか。

このほかに、書簡集や他の論文、指揮法の本として

シェルヒェンの教本を推薦している。

3.彼はヴェルディを引用して言う

「素晴らしい声と繊細な演奏」(これに、有名な指揮者と第一級のオーケストラ、と付け加えても良かろう)、「それだけでは現代のオペラ文芸作品をわかってもらうのに足りない。歌、楽器演奏、演技、衣装、舞台装置、すべてが一つになって、やっと〈複合したもの〉になるのだ。---我々は〈ひとまとまりのもの〉(アンサンブル)を望むのであり、つまり〈集約した全体〉を望むのだ。それがオペラというものであって。。。。。。。」

最後にこう行っている、

「劇作家ヴェルディが歩らに求めているものは、だから、他の点で相違するにもかかわらず、ヴァーグナーが求めているものとなにも違っていない。」

この本は第2次世界大戦中に執筆されている。

この時点で彼はオペラ歌手の容姿について何度も言及している。

美しい容姿は必須だと。

これなどは、ここ最近の傾向かと思っていたが、

http://dialzero.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_e728.html

わかっている人はやはりわかっていたんだなぁ。

オペラは総合芸術ですよ。目にも耳にも頭脳にも心にもおいしくなければね。

そしてそれはヴァーグナーもヴェルディも求めているのです。

歌手やオケの楽器にも言及している。時に辛らつだ。

しかし特に興味深いのはトロンボーンのところである。

彼はバルブ付きトロンボーンの絶滅を嘆いている。

ヴェルディのオペラでは必須であると考えているようだ。

さらにアル・トロンボーンについても、残念がっている。

これらのトロンボーンをなぜクラシックのトロンボーン奏者は持ち替えをしないのか、

理解に苦しんでいる。

Jazz奏者は出来るのになぜ?

とまで言うのだからそうとうないれ込みようだ。

他にもあるのだが、最後にこれを引用して終わりたい。

         ~結局、トーマス・マンが『魔の山』の前書きで次のように言っているのは、

         もっともだ。「綿密過ぎるという悪評を恐れず、むしろ〈徹底的であること〉

         が本当に面白いのだと考えたい。」だから〈徹底的であること〉が

         少なくも不足してはならないのである。

2008年12月21日 (日)

Beethoven's Diary

メイナード・ソロモン編


ベートーベンが書いた、日記、、、、か?と思うが

まぁ、四方山の事を書いた、雑記帖のようなもの、の翻訳。

それにソロモンよる注釈がついている。

この注釈がないと一体全体何について書いてあるのかまったくわからない。

そのような性質のもの。

このなかで自分にとって面白かったのは、

ベートーベンがインドの ヒンデュー教の本から

抜粋したセンテンスが書かれているという事。

勿論ドイツ語訳である。

どうやらこれらの文を使ってインド的?カンタータみたいなものを作曲するつもりがあったらしい。

「ベートーベンとブラフマン」

彼の宗教観が単なるキリスト崇拝ではなかった事を物語興味深い事実ですね。

ふむふむ。

ぜひ作曲していただきたかった。

2008年12月 6日 (土)

「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」

川口マーン恵美著

語り口のよさ、というか読みやすさから、駆け出しの人かと思ったら結構著作がありました。すみません。一気に読める文章です。お勧め。

さてタイトルの答えは実際には結論が出ない、というか結論は個人的なものにならざるをえない類のものである。

筆者のフルトベングラーよりの記述に眉を寄せつつも、
ベルリン・フィルの古参・引退メンバーがいかにカラヤンを高く評価していたかが分る本である。

また順位をつけようとする事に反対し、懸命に結論めいた事を避けようとする団員の心のやさしさに感銘を受けた。

しかし著者の執念が実ったのか幾つかの思い発言がメンバーからでる。

「私は常に自分の為に音楽を演奏してきた。指揮者のためではない。しかしもし私が自分以外の人間のために音楽をしたことがあるのなら、それはフルトベングラーのためである。」

強烈な尊敬と親愛の表明であろう。私は演奏行為は「自分と周りにいる人(観客)の為に弾き、作曲家への感謝の表明」だと思っているので、
「このオヤジ、エゴだな」と思いつつも、そんな思いを捧げられる
フルトベングラーのすごさを垣間見てしまう。

しかし、こんなセリフもある。
「私が入った頃、フルトベングラーのファンだったわけだが、先輩奏者にこう言われたよ、「お前はニキシュ(前任の指揮者)を知らんからなぁ」と。つまり、人が昔を懐かしむのは普通のことなんです。」

そりゃそうだ。


カラヤン、フルトベングラー、

どちらが偉大か?という問いに答えは無い。

しかしどちらの指揮者も人に昔はよかったと思わせるだけの偉大なカリスマを持ち、卓越した演奏をした事は事実であろう。我々の最大のライバルだったりもするのだ。

ほかにもはっとする言葉があるので、オーケストラ音楽好きなら読んで損なし。

2008年11月24日 (月)

サイモン・ラトル―ベルリン・フィルへの軌跡

現ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督である、

サー・サイモン・ラトルの伝記:ニコラス・ケニヨン著

クラシック音楽界の流行であるのでまぁ、

目くじらを立てる必要はないのだが、それにしても

演奏家の伝記がここ数年、大変多く出版されている。

伝記などというものは、対照者の没後に書かれるものと子供の頃は

思っていたのだが、、、

それはさておき、

サー・サイモンの伝記だ。

サー・サイモンは「音楽の無い土地:イギリス」(19世紀には実際にこう呼ばれていた)からついに出てきた、

超カリスマ指揮者である。

彼とはドイツで一度お会いしている。

なんというか、、、、カリスマってこういう事なのかなぁ。。。

と思うような面会だった(意味がわからん?)

彼はあからさまに、私の顔を熱心に見ながら話を聴いた。

そしてやおら、あたかも舞台俳優のように自分の意見を私をまったく見ずに3分くらいは言い続けたのである。

その時の仕草たるや、昔見たシェークスピア映画でハムレットを演ずるイギリスの名俳優オリヴィエのようであった。

簡単に言えば、

            大げさ

だった。

さて伝記のほうはいかにサー・サイモンが指揮者になり、

キャリアを積み、

地位を上げていったかが、書かれている。

実は私はアメリカ滞在時代、殆どサー・サイモンの名前を聞くことがなかった。

だからベルリンフィルのシェフに就任したときはびっくりしたのである。

ここではその謎がとける。すなわち、サー・サイモンはアメリカでの

仕事に慎重で、特にニューヨークでは、何度依頼されても断ったのであ

る。

ケニヨンによれば、ニューヨークタイムズによる酷評を恐れたからとの事である。

タイムズ紙で叩かれるとそのあとのアメリカでのキャリアに支障が

出る為、あえて避けた、と言うのである。

懸命な選択とも言えるし、ずいぶん臆病とも言える。

まぁそういうわけでNYには来なかった。

したがって私が耳にする機会はなかったのである。

そうは言っても今ではベルリンフィルとNYに言っているはずだが。

ところでこの伝記、内容が薄い。往々にして対象者が生きているので、

半分宣伝、けなしはNGな物になっているような気がする。

指揮者として共感とか参考になる事も少ない。

これに比べるとギュンター・ヴァントの伝記の内容の濃さに圧倒される。この本についてはいずれ書くが、本当に頭の下がる思いで読んだ。素晴らしい伝記で、演奏家なら必読だ。

と言うわけでラトルファンであってもあまり得るところがなさそうな本であった。

2008年11月11日 (火)

ルノワールは無邪気に微笑む

千住 博著

日本画で世界的に有名な著者が、読者からの質問に答えるという形式の本。

ある意味、芸術家であるならば、彼の言っている事はもうすでに分っている事ばかりだ。

しかし、実際に言語化され、文字にして読む事で気づく事があるのも事実。

一つだけ例を。。。

Q.これからの人生で、「これだけは作品にしないと、死ぬに死ねない」というテーマ、        

 場面、風景はありますか?

A.「~(前略)~、大きく言ってしまえば「これだけは作品にしなければ、死ぬに死ねない」と

毎回思って描いているのです。しかし~(中略)~本当のところ、完璧までには至らなかっ

たと描き終えてみて何となく思っているのです。そうしてみると画家にとって現在を生きると

は未来に完成する作品作りにいま励んでいるわけで、つまり未来を生み出しつつあるとい

う感じこそが現在、と言う事でしょうか。」

画家だけの思いではないはずである。演奏家でも同じ思いがあるだろう。

今目の前にある曲に打ち込み、可能な限り理想の演奏への挑戦をする。

録音などする時は、やはり後世に残る物をつくるのだから。

しかし最近の若い演奏家のなかには、これは「通過点」的な発言をレコーディングに対し

てしているのを見かける。

千住氏の話を聞いてみよう。

千住氏: 「本当は将来これを描きたいんだけど、仕方なくその前にやっておくことがあるので、それをやる、という行き方は少しも現在を生きることにはならず、これはすでに過去の延長を生きていることにほかならない、(後略)」

CDの売り上げが落ちる?ミリオンセラーがでない?

当たり前じゃぁないですか?

2008年10月25日 (土)

モーツアルト 天才の秘密

中野 雄著

なかなか面白い本でした。伝記ではありません。

何がモーツアルトにモーツァルトとして成長させたか?

が主題となっています。

この中から、2つ、「なるほど」と思ったものをご紹介。

1.旅は脳を鍛える

著者によれば、「人間の脳は活発な刺戟を受ければ、記憶力も情報処理能力も上がる。そのためもっとも与って力あるのが《空間情報の変化》すなわち【旅】である。」

モーツァルトが旅を多くした事は知られているが、生涯の28.4パーセントが旅であったと言うのはすごい事である。イタリア・フランス・イギリスそしてドイツ語圏の国々(ドイツと言う国はなかった)など子供の頃から回りまわったアマデウス君にとって旅は生活の一部、もしくは大事な要素であったろう。

そして旅が脳によいのであれば、モーツァルトはそれを幼児期にはすでに始めていたわけであるから、脳の発達には理想的であったと思われる。

2.新製品成功の秘訣は「新しすぎない事」である。消費者や愛好家にまず安心感を与えるものづくりをし、その中に新鮮な、驚きの要素を秘める。

これも確かにそうだろう。しかし晩年のモーツァルトの音楽は完全に新しすぎたと思われる。彼は平然を政治的に危険性のある「フィガロの結婚」をオペラ化し、さらに「ドン・ジョバンニ」では貴族男性には素晴らしいアリアを与えず、しかも「コジ」に至ってはこま使いのデスピーナがそうそうたる存在感をしめし、失笑を買うのは王族の子女達である。

貴族の娯楽、消耗品の音楽であったはずのものが、いつの間にかドラマ性・精神性・真実性などを追い求める芸術作品になっていった。
この頃書いた「ピアノ4重奏曲 ト短調K478」は

「難しすぎて楽しめない」と言う理由で出版を依頼してきたホフマイスター出版から苦情を言われる。

そう、この頃の音楽は観賞用ではなく娯楽・気晴らし用であり、自分で演奏して楽しむというのも大事な要素だった。だから弾けない室内楽などは売れないのである。

なぜそのような危険な傾向の音楽を書くようになってしまったのだろうか。この本は明確な答えを提示はしない。間接的に、「父の死」をあげているに過ぎない。

ただ、晩年のモーツァルトの音楽がその質を一変し、さらなる表現力と深みを加えた事は間違いないことだと思う。まったくもって残念なのはモーツァルトがハイドンと一緒にロンドンへ行くなどという事がおきなかった事だと思う。市民階級の台頭著しかったかの国であれば、、、

2008年8月11日 (月)

ベートーベンの耳

「本当は聞こえていたベートーヴェンの耳」  江時久著

を読んだ。

もともとベートーヴェンが完全な失聴者ではなく、難聴者であることは

はっきりしていた。

でなければ、ちょっと無理なエピソードが幾つかあるからだ。

しかしやはり人の声が聞こえず、ピアノやオケの音は聞こえる

というのはなんだが不思議な感じがしていた。

しかし、この本を読んでやっと謎がとけた。

あぶみ骨固着による難聴であれば、上記のような症状になるという。

つまり、
     
    人の声が聞きづらく、楽器の音はかなり良く聞こえる

のである。

驚くべきことに、人間は音を耳以外の場所でも聞いているというのである。

つまり、音の振動は耳と頭の骨を伝って頭の中に入っていくのだそうだ。

これはびっくりだ。

思い返してみれば、耳栓をしても結構聞こえてしまう事がある。

耳栓がちゃんと入っていないのかと思っていたのだが、実は耳(気導)

はふさがっていて、頭の骨(骨導)によって音を我々は拾ってしまって

いたのである。

ただし、江時氏によれば骨導による聴音は音そのものが強くなければな

らないと言う。つまり、人の声より楽器の音(勿論音量はデカイし、遠

くに飛ぶ)のほうが、強いので骨導による聴音が可能だと言う。

しかし骨導は万能ではない。残念ながら、発音物体が遠くにある場合、

音の力は拡散してしまうため、骨導では聞き取れなくなってしまう。

そうであれば、ベートーヴェンが遠くで鳴っている音が聞き取れなくて

も不思議ではない。またオペラなどは歌手が遠すぎるので、

良く聞こえないし、お客さんの拍手も、彼の後ろから音があるので、や

はり聞こえないのである。

以上はこの本から得た情報である。

さてここで考えるべきは、では実際どの程度聞こえていたかである。

そしてこれには答えがない。あぶみ骨固着難聴者にはオーディオマニア

など、音・音楽好きが多いという。しかしこれをもってベートーヴェン

の耳が良かったと言う証拠にはならない。




結局ベートーヴェンの耳がどれほど良かったという事は永遠にわからな

いであろう。そしてそんな事よりも大事な事は、例え彼が普通に全てが

聞こえていたとしても、彼の曲の価値は変わらない。

私がベートーヴェンの曲に感動するのは、その曲が失聴者によって

書かれたからではなく、その曲がそのような力を持っているからだ。

そして忘れてならないのは、ベートーヴェンは人と会話をするのは難し

かったという事実である。

それはつまり、彼にとっては(我々が知るように)難聴も失聴も死ぬほ

ど辛い事であり、彼の人生を困難にしたという事である。

ベートーヴェンの人生が困難であり、それを彼は音楽活動を通して克服

していったのである。我々が彼の音楽に聞くのは、そのような彼の苦悩

(アパショナータ)とそれに立ち向かう勇敢(運命)と、そして未来へ

の希望(第9)ではなかろうか。勿論ここに、深い悲しみの果てに

たどりついた諦念(最後の3つのピアノソナタ)を足したい方もいらっ

しゃるだろう。

もう一度言いたい、ベートーヴェンの音楽の価値は変わらない、例え彼

の耳が聞こえていたとしても、、、、、





ちなみに著者はあぶみ骨難聴者である。

2008年8月 3日 (日)

脳と仮想

 2001年の暮れ、私は羽田空港にいた。朝一番の飛行機で旅行から

 帰ってきて、レストランでかれーライスを食べていた。私の横に、

 家族連れがいた。5歳くらいの女の子が、隣の妹に話しかけていた。

 「ねえ、サンタさんていると思う?○○ちゃんは、どう思う?」

 それから女の子は、サンタクロースについての自分の考えを話し始めた。

 その先を、私は良く聞き取れなくなり、カレーライスの皿の上にスプーンを

 置いた。

 「サンタクロースは存在するのか?」

 この問いほど重要な問いはこの世界に存在しないという思いが、

 私を不意打ちしたのだ。

このようにして茂木健一郎の「脳と仮想」は始まる。

「仮想」、つまり実際には存在しないもの、そしてそうであるにも拘らず、いやそうであるが故に、「仮想」に人間は切実なものを感じる。過去に起こった物事はすべて仮想である。想像の動物や人(サンタクロース)も仮想である。あなたが誰かをイメージしたら、それが実在する女性(初恋の人とか)であろうとなかろうと、彼女は「仮想」である。美も善も仮想である。この世は「仮想」に溢れている。いや、人は「仮想」なしに生きていけない。人はなぜこのような「仮想」にそれほどの実感を感じるのだろうか?

茂木氏は色々な例をありとあらゆる角度が論じ、いかに人間が「仮想」と伴に生き、それがいかに我々の人生の本質であり、故に大切であるかを説く。

氏は現代の視覚文化へ警鐘を唱える:

  画家は単に目があるから見るのではない、寧ろ、目があるにも関わらず、

  見抜くのである。-中略- 様々な情報をデジタルのデータとして大量に

  手に入れられる現在、何かを見ることの困難はむしろ増大している。

  本来現実に対応物がないことが本質である仮想でさえ、わかりやすい音や

  絵にして見えることを人々が要求し始める。現代人はひょっとしたら

  仮想とはCGによって表現されたハリウッド映画のことだと想っている

  のではないか。CGによて表されたものは、仮想ではない。

  それは、「今、ここ」の現実である。

したがって茂木氏は「仮想」をビジュアル化し、解りやすくすることに異を唱える。

例としてワーグナー作曲の「トリスタンとイゾルデ」の最後のシーンをあげる。

イゾルデは最後、死んで横たわっているトリスタンのもとへ生きながらにして死

に、彼への愛ゆえに、昇天する。それは死んで彼女の魂がトリスタンの魂のもとへ

行くという演出が一番解りやすい。故にそのような様子をスクリーンに映してみた

りする事は可能だ。しかしここで一番大事なのは、そのような昇天は話の筋と幻想

性から考えてみれば、見なくても観客は感じることができる。

否、感じる内容事態は各々違うかもしれない。しかし、そのような、「愛ゆえに」と

いうような身を焦がす思いが、イゾルデを死んだトリスタンのもとへ連れて行くと

いう現実ではありえないような事象を引き起こしている事は、観客はそれを見なく

ても、感じることができるのである。

それをまず、イゾルデを殺し、そして魂をおぼしきイゾルデのイメージが体内より

出てきて、そして云々、、、、などと見せる必要はないし、

見せる事によって観客ひとりひとりが自分でそのような

彼自身のオリジナルの「仮想」を作る事、

瞬間的に作ってしまうという事によって起こる

感動の体験」、エモーションの波

を体験する事を妨げる事になる。

そうなれば、「仮想」に対して人間がもっている切実さなど当然消えうせてしまう。

「仮想」をつくり、見ること、それは物事の本質(往々にしてそれは概念的であり、

物質的ではない)を見ること、考える事に繋がるのである。

それにしても、「芸術は、人に心を傷つけることで感動させる」

のくだりは本当に卓抜である。優れた芸術作品によって心が受ける、ぐさり

としたあの感覚。

あれこそは我々芸術家が欲してやまないものだが、

何という見事な表現であろうか。

茂木健一郎が一介の科学者ではなく、

        芸術家としての科学者である一つの証がここにある。

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