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音楽理論

2009年8月21日 (金)

ハイドンを楽しむための序論: 交響曲第100番「軍隊」第一楽章の序を使って

In Nomine Domini

            ハイドンはその知名度に反比例するかのごとく、人気がないといいます。

私はハイドンが大好きなのでまったく理解不能です。

しかしハイドンの面白さがまったくわからないという人が多いので、

そうした方々のために、私が考えていることを書いてみるのも

あながち意味の無い事ではないかなと思い、本稿を書くことにしました。

            考えてみればハイドンを聞いたり、演奏したりするときには

音楽に何を求めるかという姿勢を変える必要があるかもしれません。

なぜならハイドンという人の生きた18世紀という時代と現代の差がそこに

あるからです。では彼の時代、音楽とはどのようなものだったのでしょうか。

ここではっきり言いますが、この時代の音楽は、人を泣かせる事はありません。

人間の感情のひだに触れることはご法度だったからです。

それは完全に知的であり、かつエンターテイメントなものでした。

            

            例えて言うなら落語でしょうか。落語を楽しむためには、

ある程度分かっていなければならない事がありますね。

あの独特の話し方になれなければならないし、話を聞きながら、

「あ~そうくるか」、「あ、なるほど、うまいね~」とならないとだめですよね。つまり何がくるのか、ある程度予想をたてたり、どうなっちゃうの?

みたいな事を考えながらでなければ落語は面白くない。

つまり能動的に話そのものにかかわっていかないと落語は面白くないわけです。

私はこのようなかかわりを「能動的聞き方」と呼びます。

            漫才はどうでしょう。漫才はもっと直接的ですね。時には強引に笑いに持ってくでしょう。こちらに考える時間を与えませんね。我々はただ単に与えられるままに笑うだけ。これは何にも考えずに笑う、与えられるギャグがはまるかどうかの勝負。つまり聞き手は「受動的聞き方」をしています。

           ハイドンを聞く・演奏するときには、「能動的」でなければなりません。

「このメロディーがきれいだな」とか、「分かるよ~」みたいに、

単に与えられたものに対して同調するだけでは、ハイドンの面白さは

見えこないのです。

           しかも全体を能動的に聞いてください。フルート・パートだけを聞いていても面白くないでしょうね。木管だけ聴いても駄目です。すべてにフォーカスして聞かないと単につまらない音型の羅列で終わってしまいます。

どのような掛け合いがあり、どのように管楽器がダブり、どのような違いがあり、また同じなのか。

           このように聞けるようになるには、ある程度の経験が必要です。

あなたには、あの臨時記号の面白さ、意外さが聞こえますか?

リズムのくすぐりがわかりますか?曲の構成も楽しみの一つですよ。

「軍隊」第2楽章のあのトランペットソロをあそこで、誰が予想できますか?

「でももう知ってる」ですか?だったらなんで我々はおんなじ曲を

何度でも聴くのですか? あのソロの後、嵐のTuttiが来ますね。

でその後は?自分が落語家だったら、どんな風に語りますか?

           こう書くと「ハイドンはハッタリ・誇張の音楽なわけね」と考える人がいます。はっきり言います。ハッタリ・誇張は漫才の特技であって

落語のものではありません。

           ハイドンは18世紀最大にして最高の作曲家です。

そして汲み尽くせないほど多くの曲を、信じられないようなウィットをもって

見事に構成した作曲家です。繰り返しになりますが、彼の曲では泣けません。

彼の曲はあなたの苦労も悲しみも代弁しません。

しかし、一度わかったら、一生にやにや出来ますよ。

それでは駄目ですか?

            ではこれからクラシック音楽を、ハイドンを能動的に聴くとはどのような行為かを実際に行ってみようと思います。

始める前のお断り:

これからお話しする部分は表記上2/2ですので、2拍子です。しかしその場合、

小節内の特定の場所を見ていただきたい時に1.5拍目とか1.75拍目という表記になります。これは煩わしいので、1小節を4拍として勘定いたします。

            また音名は英語表記です。本稿ではBはドイツ語のHにあたります。

すべてのシャープ・フラットは#・bで表記します。

            本稿はスコアが必要です。以下で閲覧できます。

http://imslp.info/files/imglnks/usimg/3/37/IMSLP28932-PMLP07580-haydn-sym-100-mvmt1-ccarh.pdf

準備できましたか?

では始めます。

            この曲は第一ヴァイオリンの跳躍(DからGへ)によって始まります。ハーモニーは何の変哲も無いトニック・コード(G major)が弱音(P)によって短く(4分音符)奏されるだけです。第一ヴァイオリンがDからGへ到着した時

(2拍目)他の楽器は沈黙している。この事により、D-Gという跳躍音型を

我々ははっきりと聞かされる事になります。このD-Gという音型は

Cadence(終止形)の時にバス声部が行うものです。勿論この程度の跳躍音型は

特別なものではなく、曲中いたるところで色々なパートが吹きます。

しかし曲の冒頭にいきなりメロディーを引っ張る役割を持つ第一ヴァイオリンが

終止形バスの典型である動きを示し、尚且つわざわざ良く聞こえるように楽器を

減らしているところがなんとも言えない雰囲気を醸し出します。

つまり曲頭いきなり終止してしまったような。勿論そんな事は無いわけで曲は進みます。そして第2小節目に真正のCadence。当然バスがD-Gを弾きます。

私はここでハイドンがこう言っているように思えます、「先ほどは失礼しました。こちらが正しいCadenceです。」

            所が、このCadenceは弱いものです。というのもトニック(G major)のコードが第1拍に来ていないからです。所謂「女性終止」と呼ばれるものです。(この表現は女性差別を想起させるためアメリカでは使われなくなってきています。)ここでは「女性終止」ではなく「弱終止」と呼びます。あまり力強くなく、終止感が弱いからです。その為2小節後にこんどは力強い終止が起きます。やっと一息いれられる感じです。注目していただけいたいのは最初のバス終止のD-GはヴァイオリンのD-Gとは跳躍方向が逆だという事と最後の終止はヴァイオリンとまったく同じだという事です。ハイドンは当然これを意識していたでしょう。第2小節目の弱終止ではD-Gの関連を気づかせても、逆跳躍を起こす事によって文章の切れ目を感じさせないようにしています。わざわざ「弱終止」を使ったものも4小節目まで一息もって行くための工夫なのです。

            「終止型」はこれくらいにしましょう。もっと面白いのはハーモニーです。

その第一段階としてハイドンのジャブを受けてください。第3小節目の3拍目を見てください。下から音符はA-A-E-Dとなっています。これは一体何の和音でしょうか。バスの動きA-D-Gという動きはとても類型的なものですから、想像される和声進行はIIVIもしくはV(第2転回形)-VIというものです。

IIの和音はA-C-Eで構成されますので、第一ヴァイオリンのDが非和声音になります。もしVの和音ならD-F#-ACがつくこともあります。しかし今度はEが邪魔になります。個人的にはA-A-EをとってII-V-Iの和声進行とし、第一ヴァイオリンのDを非和声音とします。

            さてもしこれが和声の宿題であれば、おそらく第一ヴァイオリンのメロディーは(第3小節の頭から)

A-B-C-C-C+(トリル)

となるでしょうか。なんと魅力の無い、つまらない音型!

本物と比べてください。

A-B-E-D-C+(トリル)

            5小節目から転調が開始されます。まずはD majorに行きますので、C#が導入されます。7-8小節目で終止が発動されD majorとなります。しかし9小節目にいきなりFナチュラル出てきてD majorというよりはD minorによります。しかもバスはG#、つまり主調であるGを否定してしまいます。このような技法は勿論存在しますが、曲のこの時点で出すのはかなり早いです。さてこの和音はG#減7なのですが、Fナチュラルがため息の動きでEに落ちます。それにより和音もE7thになり3拍目でA minorに到着します。この瞬間先ほど導入されたC#の#が消えます。10小節目、9小節目と同じ動きです。こんどはEbが初導入され、3拍目G#Gに戻ります。11小節目には小節内でGG#が矢継ぎ早に現れ、12節目ではついに半音階スケール(E-Eb-D-C#-Cナチュラル-B

が第一ヴァイオリンとヴィオラによって奏されます。EbC#はすでに紹介されていますから、まったく唐突な感じがしません。

            13小節から14小節にかけて終止が発生し、行き着く先はなんとG minorG majorの曲なのですがね。しかしこれにより今度はBbが紹介されます。これを契機?にこの曲初のTuttiになり音楽も盛り上がります。16小節目ついに盛り上がりも最高潮に達し見栄をきります。C minorです。ん?ここで序奏の役割を思い出して見ましょう。序奏というのは主部が始まるのを期待させるものです。その為主調の属和音つまり、ドミナントを用意するのです。その為の技法としてはドミナント上で音楽を盛り上げるというのがあります。この曲最初の盛り上がりでこの場所で行き着いた先は、しかしながらC minorでした。D majorであるべきある場所で!「あぁC minorに来ちゃった。やり直さなきゃ」という感じでしょうか。ですから17小節目から再びトライです。今度こそD majorに行くために。

            この再出発をどう始めるかを説明する前に、ここまでのおさらいを簡単にしておきましょう。

1.D-G音型

2.半音階の積極的かつ早い・速い導入。

3.ため息のモーション

この3つだけですね。

            さて第16小節の最後の音から第一ヴァイオリンを見てください。

Bb-Eb-D

これは1と3の組み合わせですね。

Bb-F-Eb

これは1の拡大と3の組み合わせですね。そして3の連続で上昇していきます。そしてついにD majorに到着します。

   2についてお話していませんね。勿論17-18小節でも半音は出てきます。しかしそれより衝撃的なのものがあります。それをご説明する前に一体どれだけの音がここ16小節のC minor和音までに紹介されたか振り返りましょう。

G majorですから

G-A-B-C-D-E-F#の7音。そして上述したように

C#Fナチュラル、G#EbBbがでています。

つまり、

G-G#-A-Bb-B-C-C#-D-Eb-E-F-F#

というように、1オクターブ12音のすべてがすでに奏されています。では

17小節目から見ていきましょう。半音に絞ります。

BbEbFAbG#)、C#、上で書いた赤字の部分のすべてが、17小節目と18小節目に一気に使われます。赤字はG majorスケールに含まれない音です。

つまりハイドンはG majorの曲でありながら、この序奏で12音すべてを紹介し、自由に色々な和音を使えるようにしたのです。ワーグナーもびっくりでしょう。しかも思い出さなければならないのは、そんな半音階主義的にはまったく聞こえないということです。そしてそれはハイドンがC minorに行ってしまった理由でもあります。C minorに行かなければ、これほど自然に12音全部を紹介するのは難しかったでしょう。そしてその間違った調性へ行くということが、冗談でありながらも、彼の半音使用法の極意を指し示すことになっているのです。

            このような序奏はあまりにも多くの事が起きていて、凡人たる私の頭は飽和状態になります。それを知っていたハイドンは主部の主題を美しい管楽器の響き(たったの3人)で始めてくれます。しかもまったく半音主義的な音はありません。ようやく序奏冒頭のような単純明快な音楽となります。ほっとため息が出てくるようです。まったく愛らしい開始ですね。しかし26-27小節目の第2オーボエのトリルがお囃子のように聞こえて、ちょっと小ばかにされている?感じがするのは私だけでしょうか?

これ以上書くと長くなってしまいますので、終了させていただきます。

本稿がすこしでも多くの方にハイドンのすごさと面白さの理解への入り口となればこんなうれしい事はありません。

Laus Deo

2009年7月 5日 (日)

ハイパー・メーターとフレーズ・リズム ①

「ハイパー・メーター (Hyper Meter)」(以下HM)の説明から始めよう。

直訳すると「超拍子」。だから拍子(4/4とか3/4)に関係があります。

簡単に言うと、1小節を1拍と考え、拍子記号のように、規則性が感じられる場合を、

この曲・楽章のHMとします。

例を上げましょう。

解りやすくて有名な例は第9の2楽章。

この楽章は3/4ですから、正確というか、理論的に言えば、3拍子の曲です。

しかしこの楽章は快速テンポで演奏しますね。

したがって1小節を1拍と感じられるでしょう。

そうすると自然に4小節が1ユニットに感じられ、4拍子の音楽に聞こえます。

曲の途中でベートーベン自身が3拍子への移行のために

ritmo di tre battute. 

と書いていますね。

HMとはこのように、通常の拍子記号よりも大きい楽節をユニットと考えた場合に立ち上る

拍子の事を言います。

ですから、フレーズ(注)が非常にパターン化している場合は、

フレーズの長さとHMは一致します。

上記の例もそうだし、他には「新世界」交響曲、

特に第4楽章などはその顕著な例でしょう。

ただし、例外もありますし、また人によって感じるHMが違う事もあります。

HMをまったく感じられない曲もありますし、HMが頻繁に変わる場合もあります。

HMが変わる場合でも拍子記号そのものは変わらないのが普通です。

HMはこのように、多くの変化を伴う事があります。

したがって、演奏者がどのようなHMを感じているかで、フレーズの長さや、

フレージングが変わってきます。

本稿はでは、

有名な曲を使って、HMがどのように解釈に関わってくるかを検証したいと思います。

手始めに、次回は

モーツァルト 交響曲第40番ト短調から第一楽章とメヌエットを取り出し、

如何にHMが解釈に繋がってくるかを検証したいと思います。

(注)このフレーズという単語は非常に曖昧で多義的すぎます。フレーズとフレージング。まったく意味が違う言葉です。 本稿では意図していませんが、限定された定義を与える必要があるように思えます。

2008年6月27日 (金)

フルトベングラーが愛した?シェンカー理論

日本ではシェンカーの名はフルトベングラーの名前と伴に扱われる事があれば出てくる程

度だと思います。しかし私が留学していたアメリカでは「調性音楽分析のバイブル」と言っ

ても良いほどに普通に学ばれ、音楽理論家からは神のように崇められています。

日本でも何年か前にべト5のアナリシスが出版されました。しかしまったくシェンカー理論

を知らない人には訳がわからないのではないでしょうか。しかもべト5のアナリシスは残念

ながらシェンカー理論が発展途上にあった頃のものなので、シェンカーを紹介するのに果

たして適当だったのでしょうか。

私の恩師、Charles Burkhartは「なぜ第5なんだ、第9のほうが遥かに素晴らしいのに」と

言って私を困らせました。

私はシェンカー理論とそのアナリシスは素晴らしいと思います。

その理由は我々に要求するからです、全ての音、一音一音を吟味せよ!と。

ですからその素晴らしいシェンカー理論をこれから何回に分けて(不定期になるとは思いますが)紹介したいと思います。

ではまずシェンカー理論で分析すると

「何が判るのか」

から入りたいと思います。

曲の構造が判ります。 

「な~んだ、構造くらい知っている」と言う声が聞こえてきそうですが、もうすこし付き合ってください。

この構造って言うのが何かと言うのが肝心です。

simpleな例を1つ。

記憶違いでなければバッハの平均率の第1巻のハ長調プレリュードの最初の4小節は

I-IV-V-Iというコード進行だったと思います。

もしあなたがこの4つのコードのうち1つを消去しなければならないとしたらどれを消しますか? しかも可能な限り原曲の形を崩さずに、、

答えはIVです。

なぜかと言うと、もし最初のIを消したら、唐突な始まり方になってしまうし、調性感もうすくなってしまいますね。  最後のIを消してしまうとフレーズが終わらなくなってしまいます。

Vを消してしまうとドミナントートニック進行が消滅してしまうので、やっぱり調性感が薄くなります。

ところがIVと言うコードはドミナントにつなぐのが基本的な機能であり、そのようにここでは使われています。

さてここで、この曲のメロディーというか一番上の音はなにかおもいだしましょう。

E-F-F-Eですね。

さぁこのメロディーをI-I-V-Iでひいてみましょう。

まぁokでしょう。 調性感もあるし、メロディーもまぁokってことで。

さて上のことは何を意味するかと言うと

コードには階級(ヒエラルキー)があるということです。 つまり、構造上重要なコードとそうでないコードがあるという事です。

ここで勘違いして欲しくないのは、ここでの階級というのは、

構造上であって、

音楽的には話は

と言う事です。つまり「音楽表現上必要では無い」とは言っていません。繰り返します。

言ってません。それとは別の話です。

また私はIVと言うコードが存在しなくて良いとも言ってないです。音楽をつくるうえでは全てのコードが大事です。あくまでコードの持つ機能に関して階級が存在すると言う事を理解してください。

さて、上記のような行為、つまりコードを階級に従って減らす(Reduction)事を曲全体に広げると楽曲はどんどん骨組みだけになっていきます。つまりどの音もしくはコードが構造上大事であるかが分かってきます。

おもしろいのは、このような過程をへると構造上大事ではない音が往々にしてとても表現的でたまらないと言う事も分かってきます。また、構造上も大事であり、かつ表現的な音も分かってきます。

このようにして楽曲を見ていくとどうしてもその曲に含まれる全ての音を吟味せざるをおえません。すまり、全ての音の意味を知ることになります。

かつて、アメリカの理論家allen forteが、「シェンカーの最大の発見はこのようなlevelが音楽に存在すると言う事を証明したことにある」と言っていました。

levelというのはここでは、ここではそうですね、、段階といっておきます。 つまり、上記のようなreductionの最終の結論に到達するには、段階をへて、徐々に減らしていかなければならないからです。 

この最終結論をシェンカーは

ursatz(ウワザッツ)

と呼び

このウワザッツに付随するメロディーを

urlinier(ウワリニアー)

と呼びます。

この最終結論がどんなものかはあとに譲ります。ただ知っていただきたい事はシェンカーの理論をつかい曲を分析するということは、多くのことを発見するということ。

そして、これは肝心なことなので強調しますが、

ある曲を2人の人間がシェンカー理論をもちいてアナライズした結果が必ずしも一致しないということです。

そうでありながら、どちらも正しいと言う事がありえます。 

したがって、無味乾燥な科学的・数学的な理論ではないということです。

以上駆け足で書いてみました。かなり端折っておりますので、誤解を招くような箇所があるかもしれませんが、それは追々自然と訂正されていくのではないかと願っています。