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指揮者

2012年8月16日 (木)

生徒になりに行きます。

今羽田空港の国際線ターミナルにいる。
夜1時のフライトトでまずフランクフルトへ飛び、トランジットしてグラーツへ行くという寸法だ。
現在22時50分ごろ。
とても眠い。
このまま飛行機で寝れると良いだが、
通常寝れた試しはなく、さてどうだろう。
寝て、起きると現地の明け方くらいにつくらしいので、
スケジュール的にはとても有り難いのだが。

今回は久しぶりに生徒になりにグラーツへ行きます。
John Eliot Gardinerさんのお弟子さんである、Achim Holubさんのクラスに参加します。
Kammerphilharmonie GrazというHolubさんのオケと研修がうけられます。
http://www.youtube.com/watch?v=tpG4_1DR3os&feature=youtube_gdata_player


レパートリーは
オケとは下記の3つ
モーツアルトの36番交響曲
ハイドンの88番交響曲
モーツアルトのヴァイオリン協奏曲第5番
あとピアノ伴奏で
ベートーヴェンの5番交響曲
ワーグナーのトリスタンとイゾルデ前奏曲と愛の死
及びシェーンベルクの5つの管弦楽曲

です。

俺が受けなきゃ誰が受けるかというようなプログラム。

18日から9月1日まで行います。
Holubさんはロンドンでもマスタークラスをやっていて、
なかなかの教育家とみました。
長くやっていると変な癖とかが知らない間につきますから、
治していただけるかなという思いと、
レパートリーがはまり過ぎという事、
そして、久しぶりに乾燥した空気の中で音楽をできるという喜びを持って参加を決めました。
実り大きものとなりますように、頑張りたいと思います。

さて、グラーツに行くのは初めて。
上は31度、下は13度くらいまで落ちるようです。
もちろん風邪をひいて帰ってきます(笑)
それでは行ってきます。

2011年5月23日 (月)

ノリントン、N響とコンサート②

ずいぶん書いていなかった。

忘れる前にNHKホールでのマーラーから書こう。

ノリントンの生マーラーは初めてだった。

実はCDではイマイチピンと来ていなかったのだが、今回完全に理解できたように思う。

そしてそれは素晴らしい体験だった。

彼のマーラーは諸要素を単なる要素として扱い、かつしっかりと強調するというものである。

音楽そのものと一体化し、すべて自分(指揮者=作曲家)にむかって起きている事としては扱わない。

ステージディレクター的な仕事というべきだろう。

例えば主人公達の真後ろに木々があり、強風が吹いているとしよう。

木々は揺れ、葉はざわめく。

これを主人公達の心象風景の表現と捉えるか、否か。

マーラー演奏においては、すべてが主人公の心象風景と据えられがちではないだろうか。

その為、情念の塊のような演奏にあふれている。

その逆の理知的・分析的な演奏、何か情景のようなものを想起されることはない演奏も勿論存在している、

しかしノリントンのマーラーはこれとも違う。

ノリントンは風は風のように、馬の歩みは馬の歩みとして据える。

こちらは何の隠された意図的な解釈を考えたり、感じ取ったりする必要がない。

あえて言えば映画を、しかもハリウッド・ムービーを見ているかのようだ。

しかもハイビジョンであるため、いろいろなディティールが見えるのである。

このようなマーラーはノリントンの芸風でもあるが、

軽やかであり、鮮やかであり、そしてドラマティックである。

なんといっても主人公は第4楽章で死ぬのだ。

「ここしかない」と言って教えてくれたSir Rogerの顔は、いたずら坊主のように笑っていた。

マーラーの心の葛藤を一緒に生きる気はなさそうだ。

2011年4月17日 (日)

ノリントン、N響とコンサート①

ノリントンを聞くたびに思う。

「ピリオド奏法」とか、ノン・ビブラートなんてどうでもよいと思う。

一番大事なのは、それを使って彼が表現している「何か」である。

今日のベト1には、ベートーベンが居た。

天才であり、野人であり、野心満々であり、マッチョであり、ユーモラスであり、軽やかであり、

ヴィルトオーゾである稀有まれな人間としての、ベートーベンである。

そしてなんと若々しいベートーベンであろうか。

最初の7th chordが解決しただけで、ギョッとしてしまった。

曲を知っていれば知っているほど、笑ってしまう以外にはないような、

まったくありえないような表現だった。

炸裂するティンパニ

疾走するテンポ (特に第二楽章:完全に1つ振りのテンポ)

完全に聞こえる木管郡

野外的な響きのホルン

和声進行と旋律線にかなったフレージング

基本on the stringで弾く弦楽器群

強力な強弱のコントラストとキャラクターのコントラスト

躍動するリズム

これらすべてが、演奏者全員をヴィルトオーゾに変貌させるのだ。

いや、曲がそれを要求しているのだ。

ベートーベンは奏者に要求している、「超人になれ」と。

この挑戦に果敢に挑み乗り越えた者だけが、ベートーベンが要求している「何か」を表現できる。

ノリントンはそのベートーベンの要求を奏者に提示したのだ。

そしてN響は見事に答えたのだった。

結果として立ち現れた姿は、

圧倒的な凄まじさを持ったものだった。

人は、彼の音楽作りを 「やりたい放題」と呼ぶことがある。

果たしてそうなのだろうか。

「作曲家を尊敬する事は当然だが、曲を崇拝の対象にしてしまうと、
尊敬されるべき曲は尊敬されるべき音響を持たなければならいという観念に縛られる。」

「わかりうる限りの事実をまず知りなさい。そしてそれに忠実でいなさい、
そうすれば、あと我々指揮者に出来ることは5%くらいしかないよ。」

やりたい放題やっているのは果たして誰か?

エルガーの練習などは、アンサンブルを整える以外のことはほとんどやっていない。。。。。

2010年12月21日 (火)

小澤征爾さん、復活の狼煙! Leader and Players, Deeply Bound

ブラームスの第1交響曲、ベルリオーズの幻想交響曲を振り、

ブリテンの戦争レクイエムも完璧に振られたという事で、

世界の小澤完全復活という感じでしょうか。

もっとも危惧されていたのはやはり「回復力」だと思います。

ブラ1を振ることは出来る。

しかし次の日に「幻想」振れる体力があるのか?

でしょう。

まして「戦レク」となれば、長い。

しかしご無事で、熱い指揮だったと、カーネギーで聞いた友人がそう言っておりました。

ルネ・フレミング(ソプラノ歌手)さんもいらっしゃっていたそうで、ツイッターで感動を表していました。

「戦レク」の日の前に掲載されたタイムズの記事から少し翻訳しました。

結構辛らつな箇所もあります。

とてもエレガントな椅子を指揮台に置いてはいたが、小澤氏結局それほど多くの時間を座りはしなかった。
彼とオーケストラの特別な関係は演奏が始まる前からこちらに伝わってきた。ぱっと見には予想通りに細く弱々しく見えた彼の姿も一度音楽が始まると、いつものように暗譜で、完全なる没入を持ってバレエのようなジェスチャーで指揮をした。

40年以上にわたる国際的キャリアを持つ小沢氏の最低の時期(Low points)は29年に渡るボストン響音楽監督時代にあるだろう。勿論素晴らしい成果もあったが、長く居すぎた。2002年に辞任する時には両者の気持ちは完全に落ちていた。

しかしこの時期小沢氏は他所で素晴らしい仕事を成し遂げていた。
特にこの彼が彼自身を捧げた斉藤記念オーケストラと。
この松本に拠点を置くオーケストラはほとんど日本人で構成されているが、その中には国際的メジャーオーケストラのメンバーも含まれている。

斉藤記念オーケストラの弦セクションは最高である。
その深く、ふくよかで良く響く音、それでいて素晴らしく細く、良くフォーカスされた音は
多くのヨーロッパのオーケストラが持っているような高いテンションと暖かいけれども不明瞭な響きにならない。
しかし、管セクションは素晴らしい奏者が居るにも関わらず、弦ほどの水準に達していない。
それでもブラームスの最後のコラールは崇高に響いたけれど。

~~この後下野さんの振ったほうのについて書かれていますが、何と演奏については言及せず。
   かろうじて内田光子さんの協奏曲演奏について2言3言あったのみ。最後に「幻想」について~~~~


ベルリオーズの「幻想」は長きに渡り小沢氏の十八番であり、彼の全てがこの素晴らしい演奏中に存在した。
全ての花火や緊張感の中で、小澤氏と奏者はコレを単なる「ショー」にはしなかった。
第2楽章などはキュートに演奏する事を拒否できない指揮者がいるなかで、
信じられないような暖かさで演奏された。

終曲後、観衆は熱狂した。大観衆による拍手の鳴るなかで
小澤氏は全ての奏者と握手をしようと奏者達の間を歩いて回った。

                    ~~~小澤征爾復活。おめでとうございます。~~~

2009年12月18日 (金)

NY Timesの批評から①

夕方何気なくNY timesのウェッブを覗いたらちょっと興味深いコンサート・リビューがあった

http://www.nytimes.com/2009/12/17/arts/music/17rilling.html?_r=1&ref=music

ヘルムート・リリングと彼のコーラスGächinger Kantorei(ゲヒンガー・カントライ)が

ニューヨーク・フィルに客演し、ヘンデルのメサイヤを演奏したコンサートの批評である。

指揮者だけでなくコーラスも招待するとはニューヨーク・フィルも太っ腹!

だなぁ、最近の経済状況から考えると、、、、、と思って読み始めたら

いくつか興味深い記述があったので、抜粋して紹介しよう。

Large modern orchestras sometimes offer renditions of the “Messiah” that sound thundering and heavy compared to leaner versions by period-instrument groups.

”ピリオド楽器アンサンブルの線の細い演奏と比べると、巨大なモダンのオーケストラは時として重く、雷鳴のような音で『メサイヤ』を演奏する。

But under Mr. Rilling’s eminent baton, the reduced forces of the Philharmonic produced an impressively taut, buoyant and sharply etched sound, playing with a vibrant pulse and almost no vibrato.

しかしリリング氏の突出したバトン(指揮)のもと、サイズを刈り込んだフィルハーモニックは緊張感と明るさと鋭さをともなった印象深いサウンドを作り上げ、鮮烈なパルスを保ちながら、ほとんどビブラート無しで演奏した。”

とりあえず、どれくらい少人数だったのかはこの記事からはわからないのが残念。

というのも、あのフィッシャー・ホールで8型だったら

後ろの席の人には音が小さすぎると思うからだ。

それでもバロック的サウンドを思考しているわけだからやっちゃうわけだけど、

音量についての言及はないから大丈夫だったのかな?とも思し、

それならば音響改善策を最近また施しているのかなぁとも思うわけである。

そして『ほとんどビブラート無し』だそうである。

ヘルムートは『ビブラート完全に無し』は要求しないだろうからそれはそうだったんだろう。

それにしても、アメリカもようやくピリオド情報を使って演奏するのが

普通になりつつあるのだなぁと思う。

あの国は基本的には古楽運動に限って言えばかなり後進国だった。

それは今年になってようやくJulliardが古楽科を設立した事が端的に表している。

しかしローカルで頑張っている奏者は多く、

古楽器のコンサートそのものはとても多かった。

しかしオーケストラと言える体裁を持ったグループは非常に少なかった。

私がいた頃はNY Collegium(音楽監督はなんとアンドリュー・パロット)があったけど、

今この団体のウェッブ・サイトを見ると、

なんとシーズンの予定が2006-07までしか無い。

あとはワーク・ショップしかやっていないようだ。

そのような寒い状況のなか、ニューヨーク・フィルが行った事は特筆に価すると思し、

これを機に、モダン楽器奏者がピリオド情報を用いて演奏するという、

私にとっては嬉しい状況がさらに促進される事を願ってやまない。

それにしても、信じられないのはドイツ人指揮者たちである。

ヘルムートは今年75歳だったはずだ。

シンフォニーを相手にしている同年代・少し若い世代の指揮者達が基本的に

ピリオド情報を無視もしくは拒否しているのに、ノン・ビブラートだけでなく、

Mr. Rilling favored brisk tempos on Tuesday and the choir — distinguished by its precise diction, crisp articulation and control — sounded cleanly fluid even in the fastest passages. The transparency of their immaculate singing was boosted by carefully shaped dynamic contrasts.

”リリング氏はきびきびしたテンポを好み、合唱は発音の正確さと短くはきはきとしたアーティキュレーションとコントロールにより、どんなに早い箇所でも、クリアーで滑らかに歌った。一転の曇りもない透明な歌唱は注意深く造型された強弱の対比によりいっそう輝きを増した。”

という事である。

これはすごい事だ。

合唱においては通常は音・発声・発音などはまず音のまろやかさに献身し、

美しくブレンドされた音を目指すものであろう。

したがってヘルムートが目指しているものが何であるか明白だ。

まったく驚くべきことだと思う。彼の年齢なら、

フルトヴェングラーやワルター、クナやカラヤンや、、、、、

とにかく戦前世代の洗礼を受けたはずである。

それらが原体験であるはずだ。

原体験、すなわち刷り込みというのはなかなか厄介で、なかなか抜けだせない。

ムーティやバレンボイム、コリン・デービスなど近年の研究には興味ありません的な態度

である人々を尻目に、なんとまぁモダンなことだろう。

こういうモダンなベテラン指揮者に会うといつもドイツ人だ。

恩師であるハンス・ボイアーレ氏も、ブラレクでノン・ビブラートについて語った。

また今年の3月に聴いたロッチュ氏のマタイも、きびきびしたテンポが基本になっていた。

カール・リヒターでは考えられないようなテンポであった。

ドイツ人というのは、これが正しいと思えばあっさりと過去を捨て、すぐに新しいものを

吸収し我が物にしてしまうものなのだろうか。

ある意味ドライなんだろう。

しかし自分がしていることに対する情熱と集中力が異常に高い。

昔の演奏の録音を聞きつつ、ピリオド情報をファッション的に使う(勘違いが多い)

若い指揮者よりも遥かに吸収力が高く、音楽的なのは本当にすごいと思う。

精進せねば、、、、と思う。

そして最後になるが、ドイツ人指揮者とドイツの合唱団が招待され、

ニューヨーク・フィルと地元で演奏した事は意義深い。本当に。

なぜなら、ニューヨークはユダヤ人の町だからだ。

メサイヤではなくバッハのH-mollからクレドです。 はっはやい!

2009年10月24日 (土)

youtubeでニューヨークフィル2009-2010シーズン オープニング・ガラを見て・3

それにしてもすさまじい演奏ですね。

まぁ、勿論youtubeですから、音質は本当の所はわからないし、

音色だってこうではないでしょう。

しかし、傾向はわかるはず。

なんとまぁ、変わってしまったことか。

これは私が知っているNYフィルの音ではない。

この、、、ザラザラというか、ギラギラした音色。

これを聞いて『美しい』という形容詞を使う人は入ないのではないか。

アメリカのオケはもともとあんまり『美しい』という系統ではなく、

『ダイナミック』とか『パワフル』とかで形容されがちだと思うが、

それにしてもこれは一体、、、、、

『荒々しい』演奏だ。

しかし『雑』ではない。

ひとつには、短いアーティキュレーションが、

もうひとつには、リズムの激しさが、

起因していると思う。

また音圧(こういう表現が適切かどうか、、)が凄まじい。

音を当ててだし、そのまま抜かずに行っている感じだ。

『音色の多彩さ』とか『繊細さ』(ボストン響の為に)

とか

『豊饒さ』とか『ゴージャス』(フィラデルフィア管の為に)

とか

『輝き』とか『豪快』(シカゴ響の為に)

とか

『綿密』とか『精密』(クリーブランド管の為に)

とかの形容詞は使えない。

やはり『荒々しい』としか、言えないような『若武者』の演奏だ。

あえて付け加えるなら『かっこいい』だろう。

表現の求心性に、かつてのバーンスタイン・NYフィルを思い起こさせるものがある。

しかしその表現は内向きではなく、あくまで外に向かって、

吐き出されている。

搾り出されるような激しさ。

にもかかわらず、ギルバートはなんと、『普通』に指揮しているんだろう。

棒は基本的にに『打点』はクリアーで見失いようが無い。

そうすると、これはEvery Fisher Hallという、

世界でも有数の音響の『悪さ』を誇るホールで弾いてきたことによる副産物なのだろうか。

どちらにして、私にはとても魅力のあるオーケストラの音であり、表現だ。

勿論、始まったばかりの関係だから今は良いに決まっている。

あとはこれが続くのかどうか。

来日公演はまったく行ってないので、Liveでどうなるかわからないが、

録音も含めて(でるのかなぁ。。。)、

楽しみにしたい。

2009年10月12日 (月)

youtubeでニューヨークフィル2009-2010シーズン オープニング・ガラを見て・2

ギルバートにはがんばってもらわねばなりません。

ニューヨークのこの大英断が成功すれば、他の大楽団、すなわち、

シカゴ、ボストン、フィラデルフィア、クリーブランド(かつてのBig 5)も、

重い腰を上げると思われます。

これは本当に重要なのです。

私見では現在、これらのオーケストラのシェフになれる、

いや、

なってさらに多くなって欲しい、その可能性を秘めた指揮者が何人かいます。

しかしBig 5(この名称がむなしく響くようになったのはいつだろう?)は見向きもしない。

ボストンはジェームズ・レバインとあま~い生活を送くれると思っていたのだが、この数年

レバインの身体はぼろぼろで、入院を繰り返しています。

先日もカーネーギー・ホール定期をキャンセルしました。

その際にボストン・シンフォニーがとった行動は、

『優秀なアシスタントをデビューさせる』ではなく、

たまたまニューヨークに来ていたダニエレ・ガッティを招聘する事だったのです。

一体どこまで若手を無視する気なのか。。。。

シカゴが捕まえたのはムーティですね。

あのフィラデルフィアを投げ出した男ですよ。

その以来フィラデルフィアは低迷を続けています。

唯一、クリーブランドはヴェルザー=メストとともに、良い関係にあり、

オケの状態も良いようです。

ヴェルザー=メストはムーティやレバイン、バレンボイム等よりはるかに若い事を

考えるにつけ、新しい感性を取り入れる事の重要性を痛感せざるをえません。

誤解の無いように言いますが、ムーティやレバインがへぼと言っているわけでは

ありません。

オーケストラのマネージメントの方に、もっと目を向けるべき若手・中堅を探し、

一緒に変わっていこうとする意思が無ければならないと言っているのです。

そうでなければ、アメリカ音楽界は良くならない。

若くて才能があり、能力があり、想像性、創造性もある指揮者達があの巨大な

大陸をかっぽするようになれば、この元気の無いクラシックという世界に、

大きなうねりが生まれると思うのです。

前回からの続き

2009年10月 8日 (木)

youtubeでニューヨークフィル2009-2010シーズン オープニング・ガラを見て・1

ニューヨーク・フィルのシーズンが始まった。

今回のシーズンは特別の感慨がある。

なぜならAlan Gilbert(アラン・ギルバート)時代が始まったからだ。

マズーアの後任にマゼールが決まったとき、私は怒り狂ったものだった。

『なんでわざわざマズーア切ってマゼールなんだ!!マズーアが立て直してくれたんだから、託すなら若手・中堅で行くべきだ。今更マゼールってなんだよ。本当にアメリカのオケは老人好きだなぁ』

その時私の中では何人かの若手・中堅アメリカ人指揮者の名前があった。

あれから何年経った?かは忘れてしまった。

私がニューヨーク・フィルの音楽監督になる力があると思っていた指揮者達は

大きく成長している。

そんな時に発表された人事に私は興奮した。

『やっとアメリカの楽団もアメリカの個性と才能を伸ばす気になったか。』

この人事は成功しなければならないのである。

Opening Night Gala( 1/8 ) New York Philharmonic Orchestra Symphonie Fantastique

2009年2月 8日 (日)

Fritz Busch

フリッツ・ブッシュ(1890-1951)

ドイツの指揮者。

今回2枚組みのCD(Great conductors of the 20th Century)を聞いた。

初めて聴く指揮者なのだが、大当たりだ。

録音は古いので、音質はしょうがないのだが、なんと雰囲気満点な演奏だろう。

魔弾の射手序曲など、あ~本編も聞きて~である。

基本はインテンポで、テンポは速め。

しかしリズムの意気の良さが格別だ。

しかしそれだけが強調されるような行き過ぎはなく、

所謂、粋なのである。

この粋さは他の要素、テンポ、強弱のメリハリ等にも当てはまる。

したがって、表現主義的大げさとは無縁ながら、熱い!

メリハリがありながら、自然さを感じさせる。

このバランスが貴族的で痺れる。

ハイドン(協奏交響曲)の気品の高さ、

ブラームス(第2交響曲)の厳格さ、

そしてドンファン(R.シュトラウス)のロマンティックさ、、、、

素晴らしい。

特にR.シュトラウス!

ロマンティックに浸りすぎると単なるメロドラマになるのだが、

曲にのめりこまず、一歩引いたところで表現することで、

ロマン派の香りが沸き立っている!

我々はロマンティクとは何か?

教えられ、そして

浸ることができる。

A Great Conductor of the 20th Century

まさに!

2009年1月13日 (火)

デービッド・ジンマンとの会話(ごく一部ですが)

N響に客演したジンマンについて書こう。直接お話をさせていただいたので。

筆者(U)、「あなたのベートーベンやシューマンを皆知ってますから、シューベルトでどんな事をなさるのか、興味深々です。」

Zinman(Z)、「あのスタイルはトーンハレとしかやらないよ。客演の時は時間が短すぎるから。だからパート譜もボルティモア時代から使っている古いものだ。」

えーーーーーーーーーーーーー。ショック

でもとりあえず、プッシュしてみた。

U: 「でもN響は2年前ノリントン相手に3日で全部会得しましたよ。」

Z: 「そうかね。。。。」

Z: 「でも全部を突然変えることは出来ないよ。だってコンサートでは彼らに自分達の音楽をしているように感じて欲しいんだ。私のではなくね。」

それでも筆者のプッシュが効をそうしたかは解らないが、少しだけ、ほんの少しだけ、それらしい事を行った。ナチュラルホルンのハンド・ストップの問題とアーティキュレーションである。

結果は別に書いたので、読んでください。

他にも色々尋ねたのだが、明確な答えが返ってこなかった事がなかった。

すべてが良く考え抜かれていた。

オケに対する指示も一つひとつ丁寧に与えていたのが印象に残っている。

何処まで先に行くかは、オケ次第という事なのだろう。

「指揮者とは何か」に対する一つの尊敬すべき答えを持ち、実践する賢者、それが

David Zinmanである。

より以前の記事一覧