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ピリオド情報

2021年3月17日 (水)

なぜ合唱団はオーケストラの前に立ったのか①

去る3月某日、埼玉の某所において行われた演奏会において、

せっかくの記念年がパンデミックによってぶっ飛んでしまった作曲家の巨大なミサ曲を演奏しました。

その時の配置がこれです。

 

Photo_20210316235001 

全長36メートルの奥行を持つ舞台上に広がることおよそ30メートル、合唱の最前列からオーケストラの最後列までの距離です。

合唱団は当節を反映して全員マスクを着用し、左右1.5メートル、前後2メートルの間隔をあけました。

さらに市松模様に並んでいます。

したがって真後ろの歌手は4メートル後ろに居るということになりました。

合唱団の最後列とソリストも4メートルの距離を取り、オーケストラも同様に離れて座っています。

ソリストも横1.5メートル離れており、アルトとテノールの間にいる指揮者も1.5メートル離れている。

つまり、ソプラノソリストとバスのソリストは6メートル離れていることになります。

およそソーシャルディスタンスここに極めりと言わんばかりの配置ですが、本稿で検討したいのはそのことではありません。

本稿の主旨はタイトルにあるように、なぜ合唱団はオーケストラの前に立ったのかということでです。

そして、その理由は感染症対策ではないのです。

もちろん、オケの前に立つことによって、合唱団の飛沫は合唱団内での処理で済ませることが出来ます。

さすがにこの配置で危機感を持つオケ奏者は居ないません。もちろん、現状では大きな理由になります。

しかし本当の理由は、この配置が歴史的に正しいからです。

以下は1828年のパリでの配置です。Chef d'orchestre(指揮者)の左右に合唱団が配置されているのが分かります。

つまり、合唱団はオーケストラの前にいたのです

画像1

1828年と言えばベートーヴェンの死後1年です。

また以下は1844年のドレスデンでの配置です。

画像2

これもまた、合唱団がオーケストラの前、指揮者を挟むように配置されています。

周知のように、J.S.バッハのカンタータは合唱団によって歌われたわけではなく、4人のソリストが合唱の部分もソロの部分も歌っていました。

教会は小さく、音楽家が演奏する場所は狭く(お金もなかったし)、各パートに一人の奏者しかいませんでした。

そしてヨーロッパ中でこのような状態が普通だったのです。

日常的に大きな合唱団が演奏できるような大きな教会のほうが少なかったです。

つまり、歌手がオーケストラの前に立つことが当時の習慣だったのです。

そして、その習慣のまま時代が下るとともに合唱団は大型化していきました。

例えばハイドンの「天地創造」の初演は合唱団が60人いたことがわかっています。

大バッハには望むべくもなかったことでしょう。

また、1844年の別のドレスデンの団体の配置図では合唱団がオケの左右を挟むようにして配置されているものがあります。

図の大きさから合唱団の大きさがわかりますが、合唱団が肥大化しオーケストラと同じかそれより大きかったことが分かる資料です。

そしてこの合唱団の肥大化により、合唱団は19世紀も中葉を超えてからオーケストラの後ろに配置されるようになったのです。

指揮者を見やすくするための処置であったと思われます。

つまり、1820年代、つまりベートーヴェンのミサ・ソレムニスが初演された時代においては、

合唱団はオーケストラの前に立って歌うことが普通だったのです。

それはベートーヴェンにとっても普通のことだったのです。

 

では、実際にこの配置でやってみた結果、どのようなことが分かったのでしょうか。

それは次回に書くことにしますしょう。

 

2015年9月11日 (金)

踊ってみた: パスピエ

ダンスの授業はパスピエもやりました。テンポが速くてとてもとてもついていけません(笑)

ただ、ステップは基本メヌエットと同じで、全体の動きが違います。
さて、先生から「ちょっと遅めの演奏に合わせて練習しましょう」の声で、CDに合わせて練習。
ちょっとしてから、「実際にはこれくらいね」と言われて、速いテンポのものが!
足も頭もこんがらがって全くダメでしたが、ヘミオラが出てきました。
メヌエットには殆どヘミオラはないので、突然ステップと合わない音楽が来て、ビックリすると同時に、身体と音楽のシンクロしなさ加減で気持ち悪くなりました。
さて、当然ヘミオラ用のステップを教えてくれるかな?と思ったら、一言、「ヘミオラ用のステップなんて無いは。」

私「かなり気持ち悪いのですが」

先生「そうね、それがバロックダンスというものよ。音楽とダンスは衝突するのよ。それが良いのよ!」

バロックとは、歪んだ真珠って意味でしたねぇ。

先生「ヘミオラに親和性の高いステップはあるよ、ただし、ヘミオラ用ではない。間違えないように」

ということでした。

夜は先生がバロックオケの伴奏でフォルラーヌを実演。細かい音が沢山あり、奮闘しているオケに対して「もっと速く」と要求し、見た目には鷹揚なステップをする先生を見て、こういうconflictもあるのねと、
妙に感心した日でした。

2015年9月10日 (木)

踊ってみた: メヌエット

バロック音楽は、ダンスミュージックと言っても良いくらい沢山の舞曲があります。そして、ダンスのタイトルがついていなくても、あるダンス特有の音形やらなんやらで構成された曲も沢山あります。その場合は、ほのめかされているダンスがどのダンスかを特定すれば、テンポやフレーズの構成等を決めるときの参考になります。
その手のことを知識として知ることが出来る本は、出版されていますから、私も昔は読んで、知識として知っています。

ダンスとバッハの音楽

しかし今日に至るまで、実際にステップを踏んだことはありませんでした。
今日教えていただいたのは、
メヌエットとパスピエ。
メヌエットのテンポを速くするとパスピエになると言うと語弊があるかもしれませんが、超基本ステップが同じということもあり、その関連性も理解出来ました。

さて、私はクラブにすら行ったことがありませんから、

踊れませんw

が、兎に角習いました。
そして、団体レッスンでしたので、
みんなでクープランあたりのメヌエットで繰り返しステップを踏みました。一応残されている振り付けの絵を基にして、先生が2人1組で踊ってもくれました。

なんともいえない優雅さ。
お互いが見つめ合ったまま手に手をとって踊る姿は、見ていてちょっと気恥ずかしくなるくらいでした。
不思議な経験。

さて、今回実際にステップしてみて、メヌエットのフレーズ構造が、ようやく腑に落ちました。
メヌエットは3拍子で記譜されるわけですが、必ず2小節フレーズであると読んで知っていました。つまり、6拍でワン・フレーズ。
しかし実際に演奏してみると、そこまで2小節フレーズを感じないことが度々ありました。
しかし、ステップのサイクルが6拍と言うか、6つのモーションで1サイクルなのです。ステップをしている最中は、123、223ではなく、123456と数えていないと混乱してダメでした。
基本爪先立ちして歩くのですが、踵を降ろす時があります。
それが、2と6なのです。
2と5なら123、223でシンメトリーになるので簡単だと思うのですが、
この不規則性を持った規則的なステップがフレーズを嫌でも2小節にするのです。
この事を身体的に理解できたことは、大きな発見でした。
皆さんも踊って見ると新しい発見があるのではないかな?

2009年12月18日 (金)

NY Timesの批評から①

夕方何気なくNY timesのウェッブを覗いたらちょっと興味深いコンサート・リビューがあった

http://www.nytimes.com/2009/12/17/arts/music/17rilling.html?_r=1&ref=music

ヘルムート・リリングと彼のコーラスGächinger Kantorei(ゲヒンガー・カントライ)が

ニューヨーク・フィルに客演し、ヘンデルのメサイヤを演奏したコンサートの批評である。

指揮者だけでなくコーラスも招待するとはニューヨーク・フィルも太っ腹!

だなぁ、最近の経済状況から考えると、、、、、と思って読み始めたら

いくつか興味深い記述があったので、抜粋して紹介しよう。

Large modern orchestras sometimes offer renditions of the “Messiah” that sound thundering and heavy compared to leaner versions by period-instrument groups.

”ピリオド楽器アンサンブルの線の細い演奏と比べると、巨大なモダンのオーケストラは時として重く、雷鳴のような音で『メサイヤ』を演奏する。

But under Mr. Rilling’s eminent baton, the reduced forces of the Philharmonic produced an impressively taut, buoyant and sharply etched sound, playing with a vibrant pulse and almost no vibrato.

しかしリリング氏の突出したバトン(指揮)のもと、サイズを刈り込んだフィルハーモニックは緊張感と明るさと鋭さをともなった印象深いサウンドを作り上げ、鮮烈なパルスを保ちながら、ほとんどビブラート無しで演奏した。”

とりあえず、どれくらい少人数だったのかはこの記事からはわからないのが残念。

というのも、あのフィッシャー・ホールで8型だったら

後ろの席の人には音が小さすぎると思うからだ。

それでもバロック的サウンドを思考しているわけだからやっちゃうわけだけど、

音量についての言及はないから大丈夫だったのかな?とも思し、

それならば音響改善策を最近また施しているのかなぁとも思うわけである。

そして『ほとんどビブラート無し』だそうである。

ヘルムートは『ビブラート完全に無し』は要求しないだろうからそれはそうだったんだろう。

それにしても、アメリカもようやくピリオド情報を使って演奏するのが

普通になりつつあるのだなぁと思う。

あの国は基本的には古楽運動に限って言えばかなり後進国だった。

それは今年になってようやくJulliardが古楽科を設立した事が端的に表している。

しかしローカルで頑張っている奏者は多く、

古楽器のコンサートそのものはとても多かった。

しかしオーケストラと言える体裁を持ったグループは非常に少なかった。

私がいた頃はNY Collegium(音楽監督はなんとアンドリュー・パロット)があったけど、

今この団体のウェッブ・サイトを見ると、

なんとシーズンの予定が2006-07までしか無い。

あとはワーク・ショップしかやっていないようだ。

そのような寒い状況のなか、ニューヨーク・フィルが行った事は特筆に価すると思し、

これを機に、モダン楽器奏者がピリオド情報を用いて演奏するという、

私にとっては嬉しい状況がさらに促進される事を願ってやまない。

それにしても、信じられないのはドイツ人指揮者たちである。

ヘルムートは今年75歳だったはずだ。

シンフォニーを相手にしている同年代・少し若い世代の指揮者達が基本的に

ピリオド情報を無視もしくは拒否しているのに、ノン・ビブラートだけでなく、

Mr. Rilling favored brisk tempos on Tuesday and the choir — distinguished by its precise diction, crisp articulation and control — sounded cleanly fluid even in the fastest passages. The transparency of their immaculate singing was boosted by carefully shaped dynamic contrasts.

”リリング氏はきびきびしたテンポを好み、合唱は発音の正確さと短くはきはきとしたアーティキュレーションとコントロールにより、どんなに早い箇所でも、クリアーで滑らかに歌った。一転の曇りもない透明な歌唱は注意深く造型された強弱の対比によりいっそう輝きを増した。”

という事である。

これはすごい事だ。

合唱においては通常は音・発声・発音などはまず音のまろやかさに献身し、

美しくブレンドされた音を目指すものであろう。

したがってヘルムートが目指しているものが何であるか明白だ。

まったく驚くべきことだと思う。彼の年齢なら、

フルトヴェングラーやワルター、クナやカラヤンや、、、、、

とにかく戦前世代の洗礼を受けたはずである。

それらが原体験であるはずだ。

原体験、すなわち刷り込みというのはなかなか厄介で、なかなか抜けだせない。

ムーティやバレンボイム、コリン・デービスなど近年の研究には興味ありません的な態度

である人々を尻目に、なんとまぁモダンなことだろう。

こういうモダンなベテラン指揮者に会うといつもドイツ人だ。

恩師であるハンス・ボイアーレ氏も、ブラレクでノン・ビブラートについて語った。

また今年の3月に聴いたロッチュ氏のマタイも、きびきびしたテンポが基本になっていた。

カール・リヒターでは考えられないようなテンポであった。

ドイツ人というのは、これが正しいと思えばあっさりと過去を捨て、すぐに新しいものを

吸収し我が物にしてしまうものなのだろうか。

ある意味ドライなんだろう。

しかし自分がしていることに対する情熱と集中力が異常に高い。

昔の演奏の録音を聞きつつ、ピリオド情報をファッション的に使う(勘違いが多い)

若い指揮者よりも遥かに吸収力が高く、音楽的なのは本当にすごいと思う。

精進せねば、、、、と思う。

そして最後になるが、ドイツ人指揮者とドイツの合唱団が招待され、

ニューヨーク・フィルと地元で演奏した事は意義深い。本当に。

なぜなら、ニューヨークはユダヤ人の町だからだ。

メサイヤではなくバッハのH-mollからクレドです。 はっはやい!

2009年6月 6日 (土)

ヘンリー・パーセル作「ディドとアエネアス」

ここ何十年かのスタイルの変化は大きいものだ。

今日は映像・録音でたどってみよう。

曲は

Henry Purcell ヘンリー・パーセル作曲 

Dido and Aeneas 「ディドとアエネアス」から

Dido's Lament(ディドの嘆き)として知られる When I am laid in earth

まず始めは

世紀のヴァーグナー歌手

Kirsten Flagstad キルステン・フラグシュタート 

重く、遅く、太く、肥大化したロマンティック歌唱である。

巨大なホールでワーグナーやそれ以降に巨大化したオーケストラを向こうに回し歌う

にはこれほどの声が必要だ。勿論そのような状況はパーセルの時代には

普通ではなかったし、通常歌手達、作曲家達はそれを想定してはいない。

戦前のスタイルだ。

1952年録音。

次は1966年、グラインドボーンでのライブ映像。

Janet Baker (ジャネット・ベーカー)の素晴らしい歌唱をどうぞ。

このプロダクションの指揮者は何とピリオド奏法で素晴らしい録音を多数している

Charles Mackerras (チャールズ・マッケラス)

チェンバロがはっきり聞こえるところが、古楽大国イギリスらしい?のかな。

次は時代がもどった?みたいなJessye Norman(ジェシー・ノーマン)の歌唱で。

さて伴奏は上のマッケラスが音楽監督を務めていたSt.Luck's Orchestra。

1994年のライブ。

ノーマンが装飾音符を足すあたりが、古楽の自由度の高さが認識されてきている事の

証明だろうか?

ここで古楽系にシフトしよう。

歌はAnne Sophie von Otter (アンネ・ゾフィー・フォン・オッター)

テンポが明らかに少し速い。そして勿論ピッチが低い。

細かい抑揚が増えてるがどうだろうか。

さてここで大御所Emma Kirkby (エマ・カークビー)による2007年、

ニューヨークにおけるライブをご覧ください。

発音・発声法・テンポ・ビブラートの使用・アーティキュレーション・テンポ・装飾音

どれをとっても別世界なサウンドだ。

この演奏こそ、私が長年夢に見た演奏を具現化している。

会場に居て聴いていたら、「涙でカークビーが見えない」っと叫ぶほどだったろうな。

私が言ってもしょうがないが、あの世でパーセルは

「これだよ!そうだよ」

と叫んでいると思う。

古楽のリサーチが音楽的表現と最高度で結びついた本当に稀有な例。

上記のオッターもそうだけど、最近の歌手達はだいたいこれらの人たちの

中間あたりの歌唱をする傾向にあります。個人によって比重の差はあるけど。

例えばSusan Graham (スーザン・グレアム)

美しい。本当に美しい歌唱だ。

実際にわかってもらえると思いますが、彼女の声の細さや、

ビブラートが過多でないところや、控えめだけど効果的な装飾音など、

古楽よりだと思う。

中庸の美徳、、、かな。

グラハムの演奏は非常に成功している。

でも普通は、、

「はたしてそれで本当に強い感動を呼び起こす演奏が可能なんだろうか」

という感じの演奏が多い。

日々の鑑賞にはぴったりだと思う。でも、、、

私はBakerもFlagstadも本当にすごい表現力だと思う。

例え彼女達のスタイルが私の好みに合わなくても、心を動かされる。

感動できるのだ。

そのような説得力をもつ演奏こそ、真の意味でオーセンティックなのではないだろうか。

だからこんなのも、、、、いいんじゃない?

歌:Alison Moyet

私これ好きです。でも一体誰?なんです。

そしてご存知Swingle Singers

2009年5月24日 (日)

let's use vibrato

ヴィブラートについてはすでに何回か書いた。

http://dialzero.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_5fa2.html

http://dialzero.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_4087.html

http://dialzero.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_63cf.html

しかし私はアンチ・ヴィブラートではない。

ビブラートは適切に考えて使用されるべきだと言っているのです。

昔リハーサルでこんな事がありました。

私「そこビブラート無しで弾いてね。」

ヴァイオリン奏者「使ってないよ。」

私「今使ったじゃん。」

奏者「NO!」

という押し問答がありました。

困ったもんです。

自動的なんですね。

意識して使ってないんです。

これでは、自分の音に耳を傾けていないのと一緒です。

確かに、相手の音、周りの音、他の奏者がやっている事に耳を傾けるの大事です。

しかし、自分の事を忘れるのは論外でしょう。

こういう全自動ビブラート・マシーンの方は結構いらっしゃいます。

自分のビブラートが本当に美しいか、曲想に対し適切なスピードとふり幅なのか、

そして、使用しない場合はどうなのか、探求する事はないでしょう。

でもまぁ、オーケストラで弾いている場合は、、、セクション、そしてオケ全体との整合性やバランスも配慮しなければなりません。したがってとりあえず、全員思い思いのビブラートを使用する事によって最初から整合性を度外視し、各楽器の音をブレンドさせるという方向をとるのは、オーケストラという団体(巨大な)の場合は一つの解決方法かもしれませんね。

しかし勿論その逆、つまりノン・ビブラートで全員が弾くのもありでしょう。

この場合は整合性があります。全員同じ事をするわけですから。

しかも各楽器の音の個性が立ちます。ブレンドは難しくなります。

不可能ではありませんが。

そしてこの場合、いつビブラートを使うかは、

1.指揮者が決める。

2.オケ全体での合議制で決める。

になります。

オケ側から提案してくる時代がいつかくるといいなぁ。

でもとりあえず、指揮者が、解釈の一つの要素として、ビブラートの使用法を考えてみるべきでしょう。

例えば

ベートーベンの交響曲第5番第一楽章。

ノン・ビブラートで始めます。

そして再現部オーボエの可憐なソロ(268小節目)で、

オーボエにはおもいっきりかけていただきたい、

嘆きのヴィブラートを!

逆もありです。

チャイコの6番。最初の3楽章はビブラートありで演奏し、

終楽章では使わない。

あの終楽章の他の楽章との異質さはこれによりさらに強調されます。

そして意味論的にも変わってくるでしょう。

この2つの音響世界を行ったり来たりする事によって、引き出しが増えますよね。

如何ですか?

2009年1月26日 (月)

シュテュットガルト放響定期ファイナル2-2 ベルグはビブラートがお嫌い?

ノン・ビブラートのベルグはどうだったのか?

その前にソリストについて言及しておこう。

なぜならソリストはビブラートを使ってもいい人だからだ。

その人はダニエル・ホープ。

世界的名手であり、室内楽を愛し、現在ボザール・トリオのヴァイオリンもつとめている。

ホープはノリントンに言い放った。

「僕はトリオの時でもビブラートを意味も無く延々と使用したりはしない。

意味のある使い方をしたいからね。」

このセリフを裏切らない良く考えられたビブラートの使用であった。

色々なスピードとふり幅、そしてノン・ビブラートから入った後にかけ始めたりと、本当によく練ってあるのがわかる演奏。

そして所々ノン・ビブラートで弾いた箇所もあり、ビブラートを戻した時の効果は絶大であった。

素晴らしい演奏家である。

さて受けてったオケは小さい、細かいビブラートを使用。

勿論弦だけである。

管楽器は1930年代でも普通はビブラートの使用は無かったからだ。

それにしても恐ろしい事だ。オケの演奏は丸裸状態である。

音程の悪さだけでなく縦の線のずれも、はっきり聞こえてくるのが

ノン・ビブラートの恐ろしいところだ。

しかし彼らは見事に弾ききった。

特に三日目の演奏はアンサンブルが本当にぴたっと合い、

めったに聴けないほど精密な演奏が繰り広げられた。

ソリストとの呼吸もばっちりで、

「ノリントン何もしてないね」

と思ってしまうほどの完成度であった。

良い演奏ほど演奏家の存在感が消えるものだ。

この曲の持つ、レクイエム的敬虔さ、素朴さ、そして悲しみがバランスよくたち現れては

消えていった。

ここで前半終了。

休憩後はメンデルスゾーンの「宗教改革」

2009年1月10日 (土)

シュテュットガルト放響定期ファイナル2 ベルグはビブラートがお嫌い?

Berg Violin Concertoの話。

Bergのこの曲は1935年に作曲されている。

Sir Simon(ラトル)が私に尋ねた。

「Sir Rogerは私達がビブラートを使うのを許してくれるのかな?」

私は答えた、「ちょっとね。」

1935年作曲であれば、当然オケでもビブラートは普通に使われていた。

ただし、これは弦楽器の話だ。

管楽器は抵抗していた。彼らはビブラートの入っていないストレートな音で勝負していた。

これらはCDなどで容易に確かめられる。

さて、Bergはどっち派だったのだろうか。

ビブラート好き派?嫌い派?

シェーンベルグは嫌いだったらしい。

ストラヴィンスキーも嫌いだったらしい。

それでも時代の波にはかなわなかった。

ビブラート使用は普通になった。

さて、この協奏曲には面白い指示がある。

non vibr (ビブラート無しで)。

見落としがなければ、都合8回出てくる。

(以下mは小節を意味します)

第一楽章

m.28 2nd Vn & Va

m.161 strings(直後にvibrの指示)

第二楽章

m.43 Vn

m.136 Va

m.140 2nd Vn

m.158 2nd Vn

m.164 Vc

m.208 1st Vn

お気づきの方もいると思いますが、不思議な事にこのnon vibrの指示は

弦楽器にだけ与えられているんだ。

管楽器にはこの指示はない。

なぜだろう?

勿論管楽器には必要が無い。

なぜなら冒頭に書いたように、彼らはビブラートを使用していなかったからだ。

Bergはnon vibratoを表現の手段として使ったのだろうか?

つまり、ここはビブラートを使わないのがエスプレッシーボ、、、と

だとすればベルグはあの時代にあって相当に斬新であろう。

私は寡黙にしてそのような他の例をしらないし、

ビブラートが嫌いだったシェーンベルグもストラヴィンスキーも、私が知る限り、

non vibrという指示を使っていない。

マーラーは逆にヴィブラートと書いた箇所がある。

ベルグはその逆でと言う事になる。

ほんとにそうなのか?

こう考えることはできないだろうか。

つまり、Bergは彼の師匠と同じく、ビブラートが嫌いであった。

しかし、ビブラートの使用が普通になってしまったため、やむなく、

ここだけは使って欲しくないという箇所にnon vibrの指示を入れた、、、と。

つまり、ベルグのnon vibrの指示は

弦楽器奏者はヴィブラートを普通に使用していたという事実

管楽器は使用していなかったと言う事実

を証明し、かつ、

彼自身はビブラートが好きではなかった

と言う事を示唆するものなのである。

私にはどちらが正解かはわからない。

解っている事はノリントンは後者の立場である。

つまり、「あんまり使って弾かないように」とオケには申し渡した。

その演奏は、、、、、

次回に書きます。

追記:non vibrを使用している例を他にご存知の方は教えてください。

ビブラートの受容を知るヒントになりますので。

宜しく御願いいたします。

2008年12月28日 (日)

シュテュットガルト放響定期ファイナル

日本ツアーから帰ってきたオケは続けてサー・ロジャーと地元でコンサート。

日本は楽しかったようでサー・ロジャーは元気溌剌。

今回のプロは

バッハ: 管弦楽組曲1番

ベルグ:ヴァイオリン協奏曲

メンデルスゾーン:交響曲第5番「宗教改革」

リハーサルを始める前にいきなり

「良くあるフェイクとは違うからな。」

解ってますよ。待ってましたって感じです。

録音されましたので、発売されたら聞いてください。これが本当のピリオド奏法。

大体、ジャーナリストが悪い。

なんでもかんでもピリオド奏法って言うのはおかしい。

アーノンクールのブラームスはピリオド奏法とは縁もゆかりありません。っていうか、

彼はもうピリオド奏法の旗手ではありません。

ハーディングは一部、本当に一部だけ使用してます。

ラトルはベートーベン以降の音楽ではまったく使用してないでしょう。対抗配置くらい?

音をなんでもかんでも短くして、テンポ速くて、さわやかで、強弱のメリハリがあって

ビブラートを抑制していればピリオド奏法

、、、、、、、、、、ではない!!!!!!

はっ!

バッハに戻ろう。つい興奮してしまった。

ダンスのテンポを考慮した妥当なテンポ。

短すぎないけど、レガートでもないアーティキュレーション。

音型にそったフレージング。

よって流れるように推移するダイナミクス。

そして的確に足された装飾音。

モダン楽器ではこれ以上は望めないフェイクではない、本物のピリオド奏法が

ここにある。

でも、ノンビブラートばかりが取り上げられるのは本当に不本意だ。

全ての要素がそろっている真正のピリオド奏法なのに。

書くほうの人間に知識がないから仕方が無いかもしれないが、(大変素晴らしい方もいらっしゃいますが、いかんせん少なすぎる)それにしてもあまりに無責任。

演奏家達が古楽から影響を受けているのは間違いないが、、、、

間違ってるんだからしょうがない。

やめてください。ピリオド奏法って言うの。そんな単語でなんの説明になるのか?

知らない人にはわからない。しかも本物をしらずに歪んだ知識になる。

批評家はそうやって適当にすませず、ちゃんと説明しろ!

嫌なら書くな。批評家としての倫理観と責任感をちゃんと持て。

全然違う話になってしまった。

まぁバッハはこれくらいで次はベルグです。

2008年8月30日 (土)

モーツァルト作曲 交響曲第41番 「ジュピター」

交響曲第41番 "Jupiter"の第4楽章のファゴットパートにミスがあるという。

これは指揮者のBruno Weil(ブルーノ・ヴァイル)が提唱したものだ。

要約すると

255小節以下ファゴット・パートにト音記号を付加するのを忘れた

と言うのである。

リリースされたCDのブックレットに詳細が書いてあるので、図書館から借りて読んでみた。

結論から言えば、

疑問をはさまざるを得ない。

1.ト音記号?

ト音記号なら当然このFはファゴットには高すぎるので、実際になる音は1オクターブ

下のFと言う事になる。

私はそのようなト音記号の使い方をファゴットに使った例を聞いたことも見たこともない。

モーツアルトはこのような記譜を他で使っているのだろうか?

それともこれは18世紀の常識の範囲だったのだろうか?

これはそのような記譜法を他の場所から持ってきて証明すべきである。

どなたかご存知ですか?

2.何処まで?

ここでは255小節以下と書いてある(あとの方で突然253からと記してある)。

しかしどの小節からヘ音記号に戻るか書いていない。

ちなみにモーツアルトがもしト音記号を書き忘れたのなら、

ヘ音記号も書き忘れた事になる。

2重のミスを犯したことになる。

このような2重ミスをモーツアルトが犯したというのなら、このスコアそのものの完成度に

たいする疑問が浮上する。

個人的には259の半分までがト音記号と言う事になるだろう。

259小節以下をト音記号で吹けば間違いなのはすぐわかるからだ。

3.こっちがミスではない?

253がト音記号だとファゴットの音がEとGになる。従来はここの箇所、ヘ音記号読みでGと

Bなので(失礼、ドイツ語風ならH)、オーボエが吹くBbとぶつかる。和声的に見てもここは

Bbが正しいので、従来はモーツアルトがbを書き忘れたとされてきた。

ト音記号ならこの箇所は和声的に問題が無くなるので、モーツアルトはbを書き忘れたの

ではない、と言う事になる。

作曲家が臨時記号を総譜に書き込まない・書き忘れる例は事ない。

原点版をみればどれだけ多くの( )にはさまれた臨時bや#を見かけるかは

ミュージシャンのかたならだれでも知っている。

言ってみればこのようなミスは平凡で、意図的ともいえるのである。

つまり、単なる省略。

したがって臨時のト音記号を入れ忘れるというのとどちらが起こりやすいかは明白だ。

さて、ではト音記号で演奏すると実際に何が変わるのだろうか?

ヴァイルはこの箇所を「モーツアルトではなく、ドビュッシー風に響く」と言っている。

それが今回、彼的にはドビュッシーからモーツアルトに戻すと言う事になるらしい。

本当にそうだろうか?

ト音記号だと、254の和声に問題がでるのである。

従来とおりなら、FMajorにGのSuspensionが入ったものなのだが、

ト音になると、EとGの2重Suspensionになり、響き的にはぐぐっとドビュッシーに近づいてし

まう。これはどうするのか?しかもこのE、従来どおりなら、存在しない音だ。

しかも!

255からでも和声進行に何の影響も及ぼさないのである。

なぜならファゴットの吹いている全ての音は他の楽器によって演奏されているからである。

フルートとセカンドヴァイオリンである。

つまりファゴットの音はモーツアルトが意図した和声の範囲なのである。

すなわち、もしそのドビュッシー的な響が、この記号変更によって消えたのなら、

それは和声からは来ていないのである。

では何が変わるのか?オーケストレーションの変更により、各音のバランスが変わる。

ト音記号での演奏ならファゴットはトランペットとホルンとダブル。

つまりその存在感は薄れる。

結果として、「少しだけ混濁感がなくなる」であるが、実際には「殆ど変わらない」というの

が、ヴァイルのCDを聞いてみての感想である。

ちなみにヴァイルも言及している通り、提示部における平行箇所は、ファゴットはトランペ

ットとホルンをダブっている。

これもト音記号の正当性を主張する材料なのである。

つまりこのほうが論理的というのである。

しかし!

天才作曲家達が平行箇所でありとあらゆる非論理的な非整合性を用いるのは

日常茶飯事だ。

原点版を日常的に使用し校訂報告を見れば、作曲家が同じパッセージに違う

アーティキュレーションを施すなどの、一見ミスのように見えるバリエーションを与えるのは

よくある事だ。

これまでの議論をまとめてみよう。

1.? ファゴットにト音記号使用、しかも実音は1オクターブ下。そのような他の例は?

2.2重ミス!

  モーツアルトはト音記号だけでなく、どこでヘ音記号に戻るのかの指示も書き忘れ。

3.従来のbのつけ忘れは一般的な省略方法と言っていいほど普通のこと。

4.基本的に和声に変更なし。サウンド的にも殆ど変化なし。例外は254小節の和声。

  ここだけ逆効果で、さらにドビュッシー的音響になってしまう。

以上の理由で私はヴァイルの主張に同意しかねる。

思うに、ヴァイルはこの箇所というか、この楽章の書法を理解していないのではないか。

この楽章はモーツアルトのフーガ書法に対する最終回答なのである。

単旋律で良く歌う、ホモフォニックな書法が特長のモーツアルトが多声書法で使われる

フーガを使って築いた一代金字塔である。普通なら、多声書法の旋律はどれも、

あまり良く歌はない。

あまり歌える旋律にはならないのである。

しかしこの楽章では、全ての線が、あたかもオペラで使えるような旋律ばかりだ。

このような融合はモーツアルトにしか、

いや晩年の、バッハ体験を通した後のモーツアルト以外には出来ない芸当であろう。

しかしそのモーツアルトでも避けられない事がある。それは偶発的な不思議な縦の響きである。

バッハのフーガをピアノで練習した事のなるかたなら誰でも、経験していると思う。

ゆっくり弾いていると、頻繁に「これ本当にあってるのかな?」と思う箇所に遭遇する。

各声部の動きはまったく問題ないのだが、それら複数の声部をゆっくりと同時に引くと、

時々縦の響きが不思議な音響になる。これは和声の連結(縦の響きの連結)よりも旋律

的美しさ・論理性(横の流れの連結)が優先されるので、起こる現象だ。

通常は、演奏テンポで弾くとこの不思議な縦の響きはまったく気にならなくなるのだが、

ヴァイルはこの箇所で突然現れた響きに違和感を感じたのだろう。しかしそれは彼が、

この楽章を和声連結に比重を置いて聞いているから起こるのだろう。

私はこの箇所をかつて一度として、「ドビュッシー的」と思った事はない。

しかし圧倒的な旋律の洪水として聞き、常に、モーツアルトが書いたもっとも複雑にして充

実した箇所の一つだと思っている。

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